凪いだ海に落とした魔法は 3話-28
三時間目の休み時間。トイレで沢崎とばったり出くわした。隣の便器に立ってチャックを開ける僕に「よお」と沢崎が気怠い声をかけてきたから「おお」と僕はそれに同じ熱度で応えた。しばらくの間、僕たちは壁を見詰めながら無言で用を足していた。膀胱が空っぽになる頃、再び沢崎が口を開いた。
「あの女、どうしてる?」
体を振って先端の水滴を落としながら訊ねる沢崎に、「別に」と僕は言葉を返す。
「いつも通りだな。ぼーっと窓の外眺めてたり、寝てたり。優雅に過ごしてる。まるで猫だ」
「じゃれ付いてきたりは?」
「じゃれ付く?」
「私を楽しませるにゃー」
小馬鹿にした調子でそう言って、ズボンのチャックを締める沢崎。日下部に対して、未だにいい感情は持ち合わせていないらしい。
「ああ。絵を描けってなことなら言われたけど」
「絵?」
「真っ白なパズルのピースに絵を描いて欲しいんだと」
「猫のくせして詩的なこと言うじゃない」
「一体全体、何をすればいいのやら」
僕は肩を竦め、溜め息混じりに笑う。楽しいという感情を知らない人間を楽しませる方法なんて、考えたこともないのだ。野良猫の警戒心を解いて飼い猫にするほうがよほど簡単そうだった。
「まあ、俺はこの件について積極的に関与するつもりはないからな。基本的にはお前に任せるぜ」
「おい待て――」
僕の抗議を無視して手を洗い始める沢崎。
「俺はクラスが違うしな。そもそも、あんな面倒な奴に問題用紙を売っちまったお前の責任は大きいと思うわけよ」
それを言われると返す言葉がない。問題の種を蒔いたのは沢崎だが、それを発芽させてしまった原因は僕にあるというわけだ。
「まあ、何か計画があったら協力はするさ」
「それを考える仕事は僕に丸投げすると?」
「まあな」
沢崎は詫びれもなく肯定して、手首を振って水気を払う。そして綺麗な顔を意地悪そうにニヤニヤと歪めて見せた。
「ちまちまと細かいこと考えるのはお前の役目だろ」
「いつそんなこと決まったんだよ」
「そりゃ多分、最初から。頑張れ相棒」
くっくっと喉の奥で笑いながら沢崎はトイレから出ていった。確かに、最初から僕たちはこういう関係だった気がする。バイクの件もテストの件も、事の発端は沢崎だった。僕は後追いで計画に加わり、流されるまま青写真を描いているにすぎない。いつも何処か中途半端な立ち位置にいるのが僕という人間の仕様なのだろう。無意識に口から漏れた溜め息が、トイレの中に虚しく響いた。
放課後。昇降口で原口と雑談していた。ゲームセンターにでも寄って帰ろうか。新しい格闘ゲームの筐体が入ったらしい。そんな他愛もない話をしていると、背後から声をかけられた。
「シノ」
涼やかな声に呼ばれて振り返ると、そこに日下部沙耶が立っていた。片手を腰に当てた、モデル御用達の堂々たるポーズがやけに高圧的だ。
「あ、日下部」
僕は彼女の顔を見て呟いた。心にやましい気持ちを抱えていて、それを指摘されたときのような居心地の悪さを覚える。日下部の目は心の脆い部分を刺激する。