凪いだ海に落とした魔法は 3話-25
「スズキのSV400、ハーフカウルが付いてるから、SV400Sか。スリムなバイクだ。何年か前に生産終了したんだよな、これ」
沢崎がきらきらした目でバイクを眺めながら言った。高価な玩具を前にした子供みたいだった。
「さあ。私は、詳しくないから。志野も興味深そうに見てたけど、そんなに好きなの?」
「僕らはバイクが欲しいんだ。そのために金が要る」と僕は言った。
「テストの問題を売って、バイクを買うの?」
「全然足りなかったけどね。まずは免許を取らないといけないし、バイトも始めないと」
「ウチはバイトなんて募集してないからな。人手は足りすぎてる。なあ、それよりエンジン付けてみろよ。音が聞きたい」
日下部はキーを差し込み、エンジンを付けた。Vツインのそれは一瞬だけ駄々をこねるように唸った後で、野太く連続的な排気音を闇に響かせた。
「おほっ!」
沢崎が快哉を叫ぶ。「おほっ」てお前――。
日下部が、ブオオォンッと空吹かしさせるたびに沢崎は「おお」とか「ほほう」とか律儀に反応してみせる。
「なあ、やっぱり」と沢崎は言って、すぐに「乗せないよ」と日下部にその先を遮られた。ざまあみろ。
「て――」と何やら言いかけたあと、無駄を悟って肩を落とす沢崎。
――て、何だと言うのか。
ひとしきりバイクの音を堪能した僕たちは、店に戻ってすっかり冷めきったピザを食べた。不摂生な夜を送る息子とその友人にも、沢崎の父は我関せずといったスタンスを保ち続けていた。たまにこういう大人がいるのだ。世の中のルールよりも我が家のルールを重視する大人が。
ピザを食べ終えると、酒が抜けるまでコーヒーを飲んだ。
「もう店仕舞いだ」
沢崎の父がコーヒーのおかわりを持ってきてそう言った。腹の底から捻り出しているような、期待通りの渋い声だった。
コーヒーカップを空にして、そろそろ帰宅しようとする頃には日付が変わっていた。
「じゃあ、また明日。クラスも違うし、会うかどうかは分からんけどな」
トレイに食器を乗せた沢崎はそう言って、バーの奥のキッチンに消えていった。洗い物は自分の仕事なのだと彼は言っていた。
僕と日下部は彼の父に挨拶をして、店の外へ出た。
「帰ろうか。安全運転でね」と僕は言った。
「少し体が火照っているけど、問題ないよ」
日下部はそう言ってバイクに股がった。
僕もベスパに腰を降ろし、エンジンを付ける。SV400Sに比べると何とも弱々しいエンジン音が鳴り響いた。
――ねえ、志野。
二つのエンジン音をかい潜って、鈴を転がすような声が耳に届いた。視線を向けると、ヘルメットを被ろうとしている日下部と目が合った。
「頑張ってね」
と、彼女の唇はそんな言葉を紡ぎ出した。
「え?」と僕は聞き返す。
「期待してるから。あなたには」
日下部はぶっきらぼうに呟いてヘルメットを被る。
彼女を乗せたバイクは颯爽と夜闇を走り抜けて行った。赤いテールランプが流星みたいに尾を引いて、綺麗だった。
――期待してるから。あなたには。
切実で哀しげな唄の一節みたいに、その声は耳に焼き付いて離れなかった。あるいは、地球と天王星の間で交信するアストロノーツのようだった。限定され、閉じられた世界だけで交わされる親密なコミュニケーション。
僕はその響きに妙な満足感を覚える。胸がざわざわと騒ぎ、訳もなく走り出したくなる。
アクセルを捻り、ドライブインを後にした。
何をしたら、日下部沙耶は楽しんでくれるのだろう。
不思議なことに、それを考えているだけで、僕の方は楽しかった。