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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 3話-26

その日の朝。珍しいことに、僕が教室に入る頃にはすでに日下部沙耶がいた。彼女は何年もそこに放置された置物みたいに自己主張のない佇まいで窓際の席を彩っていた。眠っている人間の全てがそうであるように、彼女もまた、攻撃性の欠片もない無防備な状態を晒していた。起きているときは四方八方に銃口を向けているような雰囲気の日下部沙耶も、眠っているときだけはごくありきたりな一人の女の子だった。

僕は自分の席に座り、机に突っ伏して眠る彼女に声をかけるべきか否かを考え、すぐに眠っている人間をわざわざ起こす必要もないだろうと結論を下した。挨拶という儀式のために安眠を妨害されるのは日下部沙耶の望むところではないという判断。
騒々しい教室の中、恐らくはこのまま誰にも話かけられることのないであろう背中が、呼吸に合わせて小さく上下していた。

「今日も黒かよ」と僕は独り言を囁いた。

ピタッと背中の動きが止まる。次いでゆっくりと起き上がり、ストレッチでもするように半身になって振り返る。当然僕の目の前には日下部沙耶の顔があり、その表情はどう見ても「ご機嫌麗しゅう」と言った具合ではなかった。

「セクハラ」

電子音みたいに無機質な声が僕を訴える。

「起きてたんだ?」
「寝てたよ。セクハラされて起きたんだ」
「嘘つけ。眠りを妨げるような声じゃなかったね」
「そんなことはどうでもいい。度重なるセクハラ発言について私はついに痺れを切らしたと言っている」

自身の心情を淡々と説明口調で吐露する日下部。度重なるセクハラ発言?

「見える物を見えたままに口にしただけだよ。月を見たら綺麗だなって呟きたくなるのは人情だ」
「じゃあ不細工な人間を見かけたら、あいつ不細工だなって呟いちゃうの?」

思わぬ反撃に「いや、そういうわけでは」とたじろいでしまう。日下部はそんな僕を見て、耳にかかった髪を中指で後ろに流し、笑うように目を細めた。

「ほらね。全ての事実が言語化されることを望んでいるわけではないの。胸の中だけに留めておかないとままならないことだってある」
「黒いブラジャーも?」
「あ、また言った」
「女は面倒だ。嫌ならブラウス越しに目立つ下着なんて着けなければいいのに」

首の裏を掻きながら反論する。困ったときの定型動作。特に首が痒いわけではない。

「女の着けるもの全部が男の目を意識していると思ったら大間違いだよ。まあ、そういうのもいるんだろうけど」

僕は辺りを見回してみた。例えば白川慧なんかがそのタイプなのだろうなと勝手に決め付ける。

「まあ、そうだね。うん。とにかく気に障ったなら謝る。そういうつもりじゃなかった。でもさ、これだけは言っておくけど、見るなというのは無理な相談だからね。無意識だから、こういうのは」

男という生き物はそういう風にできているのだ。言わば逃れられない原罪であり、それを非難されるのは酷であると僕は釈明する。

「どうしてただの布切れを無視することができないの。中身を隠すための物なのに、外側にまで興味を持たれたら、こっちとしては成す術がない」と日下部は僅かな呆れを顔に滲ませて言った。
「もっともな疑問だと思う。まったく。どうしてだろうね」

開かれた窓から朝の風がのろのろと吹き込み、日下部の前髪を静かに揺らした。夏の成分を含んだ青い風に、彼女は心地良さそうに目を細める。下顎を撫でられた猫のように。


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