凪いだ海に落とした魔法は 3話-10
「何よ?」日下部は眉根を寄せて言った。
「いや、乗るんだ? バイク」
「乗らずにどうやって行くのよ。沢崎にぶん投げるために担いで持っていくとでも思った?」
「ああ、いや――。それってもしかして、自転車って意味のバイク?」
「だから、バイク。バイシクルじゃなくて、モーターサイクルのほう」
僕の頭を叩いて中身の有無を確認するかのような乱暴な口調で日下部は言った。
「原付?」僕は訊いた。
「400」彼女が答える。
「へえ。そりゃすごいね」
「別に。兄のお下がりだし。それで、何時に行けばいい?」
「え? ああ、じゃあ、九時くらいで。それくらいだとあまり人もいないだろうし。携帯番号、交換しておこうか。一応ね」
「分かった」
「忠告するけど、椅子は投げるなよ」
「その時の私に言ってくれる」
携帯番号を交換すると、日下部は鞄を手にさっさと帰って行った。遠ざかる足音に、別れの未練は1ミクロンも含まれてはいない。やっぱりコンビニで買い物を済ませたばかりの客みたいに素っ気なかった。
僕は一人取り残され、教室には放課後のしじまが蘇る。
半開きの窓から乾いた風が夏の粒子を運んできた。時計の針が進む硬質な音と、相変わらず止むことを知らないセミの歌だけが時の流れを知らせていた。何処にでもある静かな夏の昼下がりだった。
そうか。日下部沙耶はバイクに乗るのか、と僕は思った。
僕と沢崎が目標としているそれを、他の誰かが既に持っているという可能性に思い至らなかったわけではないが、その事実は何となく僕をブルーにさせた。
自分たちだけが見付けた隠しルートを、新鮮な冒険心で探検しているつもりでいたのに、その道はもう日下部沙耶が踏破した道程だったのだ。それも、いつもの帰り道を辿るような気安さで易々と。
自分が何ヵ月も貯めたお小遣いでようやく買った玩具と同じ物を、目の前でポンと親に買って貰っている同年代の子供を目撃してしまったかのようなやるせなさを僕は覚えた。
少しだけ悔しくて、凄く羨ましくて、それでも僕は、
――日下部はどんなバイクに乗っているんだろう――。
ネイキッドタイプ、レーサーレプリカ、まさかオフロードタイプなんてことも――。
今日の夜に膨れ上がる期待感を誤魔化すことはできなかった。