恋愛小説(6)-5
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たった二年前だというのに、どこか遠い世界のおとぎ話の様な気がする。二年前のあの日も、千明は何かに対して凄く腹を立て、そして勢い良く歩いてこの場所に来た。どうして怒ったのだったか……、あぁそうだ。木村さんが千明にちょっかいを出したからだ。今の木村さんの変わりようを思い出して、僕は少し笑った。あの後、ここに座って、千明に告白されたんだ。すたれたベンチを手のひらで摩り、僕はもう一度記憶に身をゆだねる。千明の涙が僕の胸を濡らし、それが冷たかったこと。千明の肩は細くて、抱きしめると壊れそうだったこと。肩を震わせながら僕の胸で泣く千明が、どうしようもなく暖かかったこと。
地表に伸びた長い影、肩を寄り添うように引っ付いていたそれが、妙に親密だったこと。
記憶というものは不思議なものだ。陽炎の様に揺らいでいるものなのに、不意に蘇る時がある。もう随分と昔に消えてしまった思い出も、夢の中でしか会えなくなった友人なども、僕が望む時には現れず、傷をえぐる様なタイミングでふと気付いた時に隣にいる。それはもうどうしようもないものだ。感情に任せて泣ければ気も晴れるのだろうけど、中途半端に年をとってしまったこの身体は、年齢を重ねる度にコントロールが出来なくなっていた。何も出来ず、ただそれが通りすぎるのを待つしかできない。身を抱え、ぶるぶると身体を震わせながら、目の前にある感情を見つめることしか出来ない。
千明は来なかった。10分待っても、30分待っても、千明は現れなかった。冬の不躾な風が僕の身を無遠慮に嬲る。熱を奪いながら後方へと流れて行くそれは、僕をなんらかの形で戒めているかの様だった。僕は寒さに耐え、記憶がもたらす震えに耐え、それでも千明の姿を求め続けた。千明の事だけを考え、全てを千明に願った。しばらくすると雪が振り出し、僕は凍える身体をホットの缶コーヒーを啜りながら、それでも千明の姿を待った。辺りはしんと静かで暗い。分厚い雲が太陽を遮り、昼間だというのに光は見当たらない。風が落ち葉を運び、それが時折かさかさと音を発する。目の前が真っ暗になる時がたまに僕を襲うことがあったけれど、それ意外をほぼ日常そのものだった。
二時間待ち続けてそろそろ帰ろうかと思った頃に、一筋の影が僕の隣に伸びた。光も無いのに影は出来るんだな、と僕は見当違いの事を思いながら、影の根元を見た。紅いスエードのブーツが落ちた枯れ葉を踏みつぶしている。徐々に目線を上げて行くと、そこには千明の姿があった。待ち望んだ、千明がそこにはあった。分厚い毛糸のニット帽をかぶり、また分厚いマフラーに顔を埋めた千明の顔にはいつか僕が買ってあげた眼鏡がかかっていた。
「ちーくん」
「やぁ、千明」
「二時間も待ってたん?」
「約束したしね」
「約束なんか、してへんやん」
そう言って、千明は僕に自分が着用していたマフラーを巻いてくれた。千明の吐息で少し湿ったそのマフラーはとても暖かくって、良く洗い込まれているのか糸が所々に飛び出ていて、それが鼻の下当たり少しくすぐったい。折に触れた千明の手はとても冷たくって、少し汗ばんでいた。
「元気?」
「さっきも聞いたやん」
「いいんだ。元気?」
「元気元気。もう元気過ぎて困ってまうぐらい元気や」
話しながらも時折千明は、鼻をすすり眼鏡を注意深くかけなおしていた。その仕草がとても愛おしいものに思えて、とても貴重なものに思えて、僕はもう泣き出しそうになっていた。でも泣く訳にはいかなかった。僕にはまだ、やらなければならないことがある。
「ちーくん、痩せたなぁ」
「千明だって」
「元気?」
「僕の方は千明と違って、いささか元気という訳にはいかないね」
雲がちぎれて太陽が顔を出した。光が筋となって公園に降り注ぎ、濃い影を造った。日の当たる場所はじわりと暖かみを持ち、風は止んだ。