続・せみしぐれ〜color〜(前編)-2
「…お帰り、千波」
背筋が、凍る。
抑揚のない、静かな声。
――どうして、もう家にいるの?
「ご、ごめんなさい、あなた。今日は、帰りが遅くなると聞いていたから…買い物に…」
「本当に…?僕に、嘘ついているんじゃないの?」
「ち、違う!何でそんな風に言う…」
「――だったら!どうして、僕が帰って来る時には家にいるって約束が守れないんだぁぁ!!」
「い…やぁっ!!」
また、始まってしまった。
こうなったこの人は、もう誰の手にも負えない。
テーブルを蹴り倒し、籐の椅子が、恐怖で固まり動けない私めがけて投げつけられる。
「ごめんなさい…!――あっ、い、痛い!」
「…謝るくらいなら、なんで最初からいい子でいられないんだぁ、千波?」
髪を掴まれ、床へと引き倒される。
「も、もう出掛けないから!!」
――バチンッ
頬に、熱い痛みがはしる。
「や、止めて、あなた!」
「嫌だよ。だって、千波は僕のお人形さんだもん。僕が何しようと自由だもん」
今し方平手打ちしたその頬を、今度は舌で舐め回しながら笑っている夫。
でも、私はわかっている。
これはこの人の『愛情表現』なのだ。
夫のこういった行為が始まったのは、新婚旅行先のフランスから帰ってきた、その日の夜のことだった。
帰宅後そのまま、お土産やら洗濯物やら大量の荷物の片付けをしていて、寝室へ行くのが少し遅くなってしまった私。
でも、優しい夫は待っていてくれるとばかり信じて、部屋のドアを開けた途端――私の身体は、ベッドの上に吹っ飛んだのだった。
殴られた左頬を押さえながら起き上がり、突然の出来事に訳が分からない私がそこで見たもの。
それは、いつも穏やかな光を湛えている眼鏡の奥の瞳は血走り、額には青筋を浮かび上がらせながら怒りに震える夫の姿…だった。
「何をしていた、千波?」
「に、荷物を…片付け…」
「僕は、すぐに来いと言っただろーっ!」
――ガシャンッ
「キャアッ!?」
夫がお気に入りのワイングラスは、壁にぶつかり派手に散った。
「…ご、ごめん…な…」
恐怖で声にならない、かすれた謝罪。
見開いたその瞳に、視点の合わない薄笑いを顔に張り付け、一歩一歩近づいてくる夫の姿が写し出される。
「…千波」
「―――……」
「ご主人様の言うことを聞けない悪い奥さんは、お仕置きしなければいけない」
耳元で囁かれるのは、逃れることのできない呪いの言葉のようで。
私は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を左右に振るだけだった。
そして。
「あ!…止めてあなた!何する…」
「だから、千波にお仕置きだよ。でも、僕は優しいから、痛いことはしないからね」
そう言って笑う夫のその右手には、さっき砕けたワイングラスの欠片。
私の柔い肌なんて簡単に切り裂けるんじゃないかと思う鋭い切っ先が、枕元の間接照明の鈍い灯りを反射して、妖しく光った。
(…この人は、誰?)
私が知ってる夫とは別人のようで。
――でも。
心のどこかでは私、気づいていたかもしれない。
優しさの中に、時折見せる冷酷な無表情。
『私』を見ているようで、実は『私という入れ物』を見ていた。
それは、義父母も同じだ。
…わかっていたのに、私、気づかない振りをしていた。
見ないように目を背けた。
だって、またひとりになると思ったから。
この人たちのこの視線は、私の両親も…同じだったから。
もう、あんな淋しさは耐えられなかったの。
…でも。
やっぱり私は、ひとりだったね。
絶望のベールが、また私を覆い始めて。
再び世界が色を亡くす前、私は最後の涙を流した。
それは本当にささやかな、けれど精一杯の、私の抵抗だった。