せみしぐれ〜君といた夏〜-3
夏祭りから数日が過ぎ、いよいよ俺が自宅に帰る日も近付いてきていた。
おっちゃんやおばちゃん、周囲の温かな人たちに囲まれた毎日が効を奏して、すっかり以前の自分を取り戻した俺。
ただ、唯一の心残りがあるとすれば、あの人のことだった。
思いを伝えたくとも、振り返って考えてみれば名前と出身校くらいしか知らないのだから、無謀と思えるその行動には踏み切れないでいた。
それに――。
『嫁いだ先で、何かトラブルがあったみたいだよ』
万屋のおばちゃんの声がこだまする。
本当に結婚しているんだろうか。
…今、この瞬間も、どこかの男のものだというのか。
割り切れない思いが渦を巻き、それは日増しに強く深くなっていく。
「あ〜ぁ、やっぱり降ってきちゃった」
山の麓に広がるこの町で、夕立は日常茶飯事のこと。
おばちゃんに駅前まで用事を頼まれ、あの人と2人で出掛けたその日の帰り道も、行きの晴天が嘘のような豪雨に見舞われていた。
「とりあえず、しばらく雨宿りしようよ」
駆け込んだ神社の社務所。
鍵が開いていたのが幸いだったが、どうやら、常時解放状態のようだった。
「濡れちゃったけど…大丈夫?」
俺は、隣で息を切らしているあの人に問いかけた。
「…うん、大丈夫」
水が滴る黒髪を絞りながらこちらを振り向いたあの人は、突然の雨に身体が冷えたのか、少し震えていた。
笑みを浮かべるその唇も青ざめている。
風邪をひかないように…と、純粋にそれだけを気にした俺は、せめてもと思い、自分が着ていたTシャツを脱いで、絞ってから渡そうとした。
「…あの!これで身体拭いたほうが…」
「えっ…あ、きゃあ!!」
小さな悲鳴が上がって、あの人が顔を伏せた。
一瞬、何がなんだかわからなかった俺も、それが俺の裸の上半身を見た反応なんだと理解した瞬間、全身が火を噴くかと思うくらいの恥ずかしさに襲われた。
「あ、あの…ごめ…すみません…」
俺、浅はかだったか?
「あ!ち、違うの。ごめんね、せっかく心配してくれたのにね」
慌てたように俺の手からTシャツを奪い取ったあの人は、しばらくそれを眺めた後、胸に抱きしめた。
俺には、その行動も意図したものとは違っていたが、俯いたまま動かないあの人の横顔はなんだかとても悲しげで、掛ける言葉も見つからなかった。
そうして、どれほどの沈黙が流れただろう。
一向に弱くならない雨音に混じって、あの人は独り言のように呟きはじめて。
――それは。
大学卒業後、そのまま親の決めた許婚の元に嫁ぎ、夫という存在から暴力を受け続けて逃げてきたという、あの人が置かれている壮絶な現実だった。
「…ほら、見て」
その小さな身体に暴力を振るえる男がいることに驚き、声も出ないでいる俺に向かって、あの人は真っ直ぐな視線をぶつけてきて。
そのまま、自分が着ていたTシャツを捲り上げた。
露わになる、雨に濡れた白い肌と薄紅色のブラジャー。
その、他に。
大小様々な薄紫色の痣と、赤黒い火傷のような痕。
およそあの人に似合わないそれらの傷は、明らかな――DVの痕跡だった。
DV(ドメスティックバイオレンス)――いわゆる、家庭内暴力。
結婚後すぐに始まったという夫の暴力は日々エスカレートし、4ヶ月が経った今では殴る、蹴るに加えて、煙草の火を押し付けられたり、言葉の暴力もひどいのだと、泣き笑いのような顔であの人は話を続けた。
「…だから、君が服を脱いだとき、必要以上に怯えちゃったの。夫は、暴力を振るいながら興奮状態になると、着ていた服を破いたりするから…。ごめんね、あれは君の優しさだったのにね」
…そんなことはどうでもよかった。
あの人が抱えていた苦痛の前では、俺の優しさなんかちっぽけなものだ。