せみしぐれ〜君といた夏〜-2
おっちゃん夫婦のお人好しは、身内のみに向けられるものではなかったようで、その民宿には俺以外にも何人か、人生にリハビリを必要とする人たちが訪れていて。
その中に、若くして嫁いだ旧家出身のお嬢様――という肩書きを持つ、あの人がいた。
けれど、その肩書きとやらもあの人の口から聞いたのではなく、噂好きな万屋のおばさんが道端で話していたことだったから、俺は、今でもあの人の素性について詳しくは知らない。
ただ、小柄な後ろ姿と零れる長い黒髪や、折れてしまいそうに細い手首、仰け反る胸の肌の白さ――。
俺の中には、今も何ひとつ忘れられない面影がある。
「あ、ここ…」
少しずつ近付く町の灯りが、やがてはっきりと見えるようになってきた頃、俺は懐かしい場所を通りかかり足を止めた。
道路脇から延びる参道の奥には、古めかしい神社。
あの頃、ひとつ屋根の下で暮らすうちに、隣町にある名門校を卒業したというあの人から勉強を教えてもらうようになっていた俺。
静かな口調で、でも時には雑談を交えながら的確な補習をしてくれる『先生』。やがて、俺は、会話を重ねる毎に近くなる2人の距離を嬉しく感じるようになっていた。
そして。
あの日も、毎年恒例だという神社の夏祭りに2人で出掛けたんだ。
おばちゃんが着せてくれた青い浴衣姿が艶やかなあの人は、慣れない下駄が歩きづらいのか、同じくおっちゃんから借りた浴衣を着た俺の袖の端を、申し訳なさそうに掴んで歩いていて。
そんな些細な仕草にも、16歳の俺の心は踊った。
祭り囃子が賑やかな雑踏の中、夜店のライトに照らされたあの人の横顔は儚く、そして美しく。
息を詰める思いで見つめながら、その反面、あの人が俺を見上げたその時は、不自然なほどに視線を逸らした。
子供じみた、明らかに不自然な俺の行動に、あの人は垂れ目をさらに細くして笑う。
『…ねぇ、16歳の男の子って、毎日どんなこと考えてるの』
のんびりと夜店巡りをしながら、どれくらいの時間が流れた時だったか。
ふいに、射的の店の軒先で精一杯の格好をつけておもちゃの銃を構えていた俺の耳元で、あの人が囁いた。
少しかすれた細い声と、背伸びした爪先立ち、俺の肩に掛かる左手の温もり。
その唇が触れてしまいそうなくらい近づいた耳に感じた、あの人の息遣い。
身体中の血液が、一瞬にして沸き立った。
その後のことは、あまりよく思い出せない。
既に、その毎日のほとんどがあの人のことを考えて過ぎる状態だった俺は、果たして、問い掛けたその本人へ何と答えたのだろう。
ただひとつ覚えているのは、その晩、俺は初めてあの人のことを脳裏に思い浮かべながら自分自身を慰め、そして果てた。
瞼の裏で微笑むあの人は、優しく俺を包んでくれて。
でも、我に返って右手に溢れた白い液体を見た途端、俺はあの人を汚してしまったような罪悪感に打ちひしがれた。
そうして、そうすることであの人を好きな自分に気づいたのだった。
「懐かしいな」
参道を上り、薄闇の中で辺りを見渡す。
夏も終わりの神社には、もちろん提灯も夜店もなく、神のおわすその聖域には、ただ蝉時雨が響くばかり。
そして――…。
周囲を廻る俺の視線は、ある箇所で凍りついたように止まった。
「…まだ在ったのか…」
狛犬が迎える境内の片隅。
そこに、音もなくひっそりと佇んでいたのは、町内の人たちも集会所として使用していた社務所だった。
小さな町だから、当然、社務所もそれなりのものだったし、それでなくとも10年前の当時から痛みの激しかった建物だった為、とうの昔に解体されているはずと思っていたのに。
「まだ在ったなんてな…。罪を、忘れるなってことなのか」
そう、確かに罪だった。
あの日、俺があの人にしたことの全て。