不確かなセカイ-10
「もしもし、家に変な男の人が不法侵入してるんです。」
彼女が掛けているのは、病院ではないだろう。救急車が必要な人はここには初めからいなかったのだし。
私は見知らぬ人の家を飛び出した。極度の緊張と疲労で、足は言うことを聞かない。飛び出してきた場所を振り返ったけれど、一階建てのその家には、彼の気配は感じられなかった。文字通り、彼は消えた。いや、初めからいなかったのか。
私はまた走っていた。けれどこれは先程のような、誰かを救うためのものではない。
誰かの死を否定するために走っている。
ふいに涙がこぼれた。
悲しいからなのか、悔しいからなのか、それとも恐ろしいからなのか。
多分すべてなのだろう。この涙の雫と一緒に、それらの感情が流れ出てしまえばいいと。そう思った。
誰かの死をも一緒にと。そう思った。
私はふらつく足に嫌気が差し、静まり返った夜の公園のベンチに腰を下ろした。どこからか、犬の遠吠えとパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。もう嫌だ。何もかも投げ出してしまいたい。今すぐ布団にもぐりこみ、ここ数日間の出来事をさっぱりと忘れて夢をみたい。そしていつもと変わらぬ明日を迎えられればいい。
日常は幸福だ。それはもう、届かないから幸福だ。
「はっ・・」
思わず笑みがこぼれる。いつもと変わらぬ明日だって?こんな狂った男が、カウンセリングを行う明日なんて、来て良いはずがない。むしろカウンセリングが必要なのは私のほうではないか。
「そう考え込むなって言ったろう。」
月明かりの下、姿をあらわしたのは
『翔太だ』
「翔太か。」
翔太だった。
「よく分かったね。」
「最初に会ったときも同じ事を言っていただろ。数時間前のことだ。忘れるわけがない。」
「そうだったね。でも時間なんて概念はあてにならない。」
「何の事だ?」
「安心していいよ。明日になれば、全てを忘れる。いつも通りの貴方がいる。」
「そんな訳ないだろう。こんな現実を見てしまったんだ。忘れられるわけがない。」
「現実じゃない。全ては虚構さ。」
「ここが、誰かの創造のセカイだからか?」
「あぁ、そうだよ。」
「誰の?」
『・・・・・』
「この息づかいが聞こえていないんだろう?ならばそれでいい。それを知れば、貴方は戻れない。これ以上足を踏み入れないほうがいい。」
「明日になれば、全てが元通りになるのか?」
「明日、この世界がここにあれば。」
「意味が分からないよ。」
「意味を知れば、貴方は都合の悪い人物になる。消されてしまうよ。」
「そうか、じゃあ、明日を待つよ。私はもう疲れたんだ。」
私は何も無いはずの宙を見つめた。「本当に、疲れたんだ。」
「そうしたほうがいい。貴方は気付きはじめている。何も詮索せずに時の流れに身を任せることだね。」
「あぁ、それじゃ。」
私は言って、ベンチから腰を上げ、彼らに背を向けた。翔太が言うのなら、明日になれば忘れるのだろう。
もし明日がくれば、忘れているのだろう。
現に、もう私からここ数日の記憶がこぼれている。
だってホラ、あんなにも救おうとして、救えなかった彼の名前を、今はもう思い出せない。