異界幻想 断章-2
人通りの少ない路地を何本か駆け抜け人馬一体の快感を味わってから、ジュリアスは帰宅した。
厩舎の前に馬を繋ぎ、家の中に入る。
この時のジュリアスは父親に娼館から帰宅した事を報告してからまた馬に乗ろうと思っていたため、厩番に世話を任せず繋いでおくだけにしていた。
家に入ると、ジュリアスに気づいた使用人達が次々と声をかけては礼をする。
軽く手を上げてそれに応えながら、ジュリアスは早足で父の書斎まで歩いていった。
入り口のドアをノックすると、中から入室を許可する声が聞こえる。
書斎に入ると、巨大な書き物机の前に父はいた。
「ただいま戻りました」
近くまでいって声をかけると、父……クァードセンバーニ大公爵は、鷹揚に頷いた。
「うむ。ご苦労だった」
したためていた手紙に蝋で封をすると、大公爵は息子と向き合う。
「娼館での修行を終わらせたお前に、授けるものが一つある」
「何でしょう?」
怪訝な顔をするジュリアスを見返すと、大公爵は柏手を一つ打った。
隣の間から、執事が顔を出す。
「さあ、こちらへ」
執事の影に、誰かが隠れていた。
「……!」
異臭が鼻に届き、ジュリアスは眉間に皺を寄せる。
よたよたと頼りない足取りで姿を現した者の存在を、ジュリアスは全力で否定しかけた。
執事の影には、女が一人。
ジュリアスより、幾分か年上……たぶん、成人はしている。
適当に切られて長さもまちまちな髪は埃とフケが凝り固まり、元の色も定かではない。
胸と腰を僅かに被うぼろきれ以外身にまとう物はなく、垢だらけでぼろぼろの肌が大部分露出している。
おそらく美人と思える顔立ちなのだが……死人よりも感情のない濁った瞳が、全てを台なしにしている。
「……」
彼女は、虚ろな眼差しでジュリアスを見据えた。
「……お初にお目にかかります」
機械的に、唇から挨拶を紡ぐ。
「私はフラウと申します。サリュイ県フラウロの村で生まれましたので、買い主様よりそう名付けられました。どうぞよろしくお願いいたします」
ジュリアスは、沈黙していた。
頭の中が、恐ろしい勢いで回転している。
「先日買い主様より身請けされ、あなた様に仕えるようにと旦那様より申し付けられました。どうぞ、何なりとご用命ください」
彼女……フラウはジュリアスの前に進み出るとひざまづき、頭を垂れる。
「……!」
感情の箍が、がちりと外れた。
「父上……これは、どういう事ですか?」
「どういう事だと思う?」
質問に質問を返され、ジュリアスは父に答える意志がない事を察した。
「私もお前も人間だ。むろん、この者もな」
何かを教え諭すように大公爵は呟いたが、ジュリアスの耳にはあまり届いていない。
「このような事っ……不愉快です!」
不愉快という言葉に、フラウが反応した。
「ご主人様はお腹立ちでございますか?どうぞ私めを殴るなり蹴るなり、お好きになさってくださいませ」
「俺はっ……俺は君に、そんな事は求めない!!」
やりきれない思いが腹の底から湧いてきて、ジュリアスは叫んでいた。
「君、フラウと言ったな!?一緒に来い!!」
ひざまづいたままのフラウを立たせると腕を引っ掴み、ジュリアスは書斎を飛び出した。
父と執事は、黙ってそれを見送る。
「……よろしいのですか?」
執事の声に、大公爵は笑い声を漏らした。
「もちろん、これでいい。あれはこれから、世の理不尽を学ばねばならぬ」
「巣立ちには、少々早いように見受けられますが」
さもおかしそうに、大公爵は笑い続ける。
「本人ではなく傍近い人間が差別を受ける所を見せるようにしてしまったのは、私の甘い所だな。しかし、彼女の存在はあれに世の理の裏側を見せる何よりの実例となろう。あれが学ぶ事を短縮できるなら、彼女の身請けにかかった少々の金など安いもの。しかし……お前なら、あれが私の意図に気づくまでどれくらいかかると見る?」
執事は、顎を指で捻った。
「そうですな……坊ちゃまの直情的な性格を鑑みますと、早くて十年はかかると思われます。あの者以外の因子があれば、もっと早まりますかな」