恋は幾つになっても-1
冴木大(さえきひろし)。少なくとも50代以上の人なら、一度は聞いたことはある名前だろう。70年代後半に活躍した、アイドル歌手である。少し濃いめの甘いマスクと落ち着いた雰囲気やトーク。そして、アイドルながら抜群の歌唱力。アイドル全盛のこの時代において、決してトップになることはなかったが、冴木には老若男女、幅広くファンが存在していた。しかし、その活動はわずか3年で突如として幕を閉じ、所属事務所は「本人の一身上の都合」としか公表せず、引退コンサートも行われなかった。
片桐圭子(かたぎりけいこ)は中学の時からの友人3人と洋食屋でランチをとった後、以前から気になっていた、住宅街にある自宅近くにひっそりと佇む、カラオケ喫茶に入っていった。
「いらっしゃいませ」
渋めの中年男性の声が圭子たち4人の耳に入ってきた。
そこには4人掛けのテーブルが3つとカウンター席が6脚ほど。それらのすべてが木目調で、間接照明や古いレコードのジャケット、ジュークボックスなどが店内を控えめに飾っており、落ち着いた雰囲気に包まれていた。ほかに客はない。
「お好きな席へどうぞ」
うながされた圭子は迷わず、カウンター席へほかの3人を誘った。口ひげを蓄えた、その男性が好みだったのが第一の理由だ。ほかの3人も圭子の古くからのなじみとあって、圭子の意図を察し、目配せをしあいながらカウンターへ。そのマスターは店のシステムを簡単に説明し、圭子たち4人のドリンクを作っている。
「ね、圭子。好みでしょ?」
友人の一人が圭子に耳打ちした。
「ええ。惚れちゃったわ」
返事の耳打ちはもっと進んだ表現だった。
4人は2時間ほど、ひとしきり歌った後、それぞれの夫(や子供)が帰ってくる家へ帰って行った。…圭子を除いては。
圭子の子供のころの夢は美容師だった。美容師だった母がいつも違った、でもおしゃれな髪型にしてくれるのを見て、「あたしもおかあさんみたいになる!」という思いを持った。実際、高校卒業後、美容専門学校へ行き、卒業後は母の美容室を手伝っていた。
転機は20代後半。家事に専念することを望んだ母親が美容院を圭子に引き継がせようとしたのである。
「あなたは私より才能がある。あなたの好きなようにお店を変えて頂戴」
圭子には自信はなかったが、根気はあった。コンテストなどに積極的に出て高い評価を得たり、店が雑誌やテレビで取り上げられたりしたこともあって、予約は1か月以上先まで埋まり、20年以上、圭子の美容院のイスは営業時間中、常に空くことがなかった。
5年程前、50才に差しかかろうとしていた圭子は悩んでいた。確かに店は繁盛した。しかし、古くからのお客さんをほかの従業員に任せたり、経営者としての事務仕事が増えたりして、自分がお客さんと直接接する機会が激減していることに、ハタと気づいたのだ。
そこで、圭子は決断する。雇っていた従業員全員にやめてもらい、予約制の店に切り替えて一人で店をやっていくことだ。従業員たちは素直な圭子の気持ちを理解した。彼らは圭子の店で雇われていたという実績もあって、1週間以内には自ら再就職先を決めてきた。そうして、圭子が店を引き継いでから、忙しなかった店は、落ち着きのある店へ大きく変化し、それから5年ほどたった今、圭子はひとりひとりのお客さんとのコミュニケーションを楽しんでいる。