凪いだ海に落とした魔法は 2話-4
不意に、教室のドアが開かれた。ドアが開くのは不思議なことではないが、何人かがそれに驚いたように顔を上げた。
そしてそこに現れた人影を認め「ああ、なんだ、こいつか」といった表情でまたうつ向く。教師も同じ反応だった。詫びれた様子もなく遅刻してきた生徒に対して、何の憤りも感じてはいないようだった。
彼女は何も言わずに教室の後ろへ歩き出した。長い髪と細い腰と、感情の機微をカンナで削り落としたかのような無表情な目をしていた。肩からくるぶしにかけてのすらりとしたラインが、少女と呼ばれることを拒絶していた。少女の証として制服を着ているだけといった趣だった。
日下部沙耶。沢崎拓也と並ぶ、この学年の有名人。朝から学校に来るなんて珍しい。
彼女は僕の目の前の席におもむろに座り、鞄を机の横にかけると、教科書を開くこともなく突っ伏して眠ってしまった。どうせ寝るならわざわざ朝から来る必要はないのに、と僕は思ったが、まあ、学校に来て何をしようが彼女の自由だ。僕には関係ない。
僕は目の前で丸まっている日下部の背中を眺めながら、ふと考えてみた。彼女は――どうだろう。
僕が必要としている条件のすべてを、日下部なら満たしてくれるのではないだろうか。授業の出席数は僕よりも少ないはずだ。その分テストで挽回しなければ進級も危ういはず。動機はある。日頃の生活態度を見ていれば、今さら盗んだテストの問題用紙が道徳的にどうこう、なんて文句を言う性格には思えなかった。それを言いふらすような友達は、いない(というより、必要としていないといった印象)。
僕は頬杖を付きながら、ノートも取らずに彼女の背中を観察していた。光沢のある髪が背中の中ほどまで伸びていて、それは見詰めているうちに、その一本一本が適宜な意匠を施された繊細な細工物であるような気さえしてきた。人間のものというより、アンドロイドのような何処か無機質な輝きを宿しているように。
彼女のブラウスを透かして見える黒い下着のラインも、やけに気になった。魅惑的というより、自らの少女性を否定するためだけに浮き上がっているような、そんなラインだった。もしこれが隣の席の鈴木の背中だったなら、僕は気にも留めなかったかもしれない。今日はまた随分と背伸びした下着を着けているんだなと、そんな面白くもない感想で目を離してしまうような気がする。電車の中の中吊り広告のようなものだ。何の気もなしに見られることを期待してはいるが、見られた所でその効果は微々たるものにすぎない。電車を降りて目的地に歩き出せば、記憶の最果まで追い遣られてしまう。
日下部沙耶と、長い髪と、黒い下着。1と2と3を足せば6になるように、そのセットは自然な物のように思えた。美しいまでの親和性。そういう女子は数少ない存在だった。
僕はさらに不正受験という項目をそこに足してみた。
日下部沙耶と、長い髪と、黒い下着と、不正受験。
1と2と3と4を足したら10になるように違和感がなかった。
でも、それが根本的に間違った考え方だということも僕は分かっていた。1+2+3+4=10。その数式から4を抜いても何故か答えは10になってしまうのだ。1の時点で彼女は既に完成されているから、そこに何を足そうが過小のない数字であることに変わりはない、ということ。
例え髪が短くても純白の下着を付けていたとしても、もっと言えばまだ見ぬ宇宙人の姿をしていたとしても、彼女は彼女で在り続けるだろう。日下部沙耶というイメージを構成するものは、長い髪だとか黒い下着だとか、そういうセクシュアルな要素ではなく、その孤高な佇まいや、気だるげな仕草や、冷めた眼差しを通してほの見える何かなのだ。
彼女は象徴を内有する。例え日下部沙耶から顔と声を奪ったとしても、その存在感は揺るがないのだろう。
当たり前のようでいて、そういう人間は多くはない。僕だってそうなのだろう。この顔と声がなくなれば、すぐに自分が匿名的な十代の量産品であることを、思い知るはずだ。
恐らく沢崎拓也も、彼女と同じ人種だ。自己の象徴を、内有する存在。
日下部と沢崎は、きっと相性がいいだろう。
そう思った僕は、ノートを小さく破き、その切れ端にシャーペンを走らせた。迷いはなかった。