凪いだ海に落とした魔法は 2話-19
日下部沙耶とは対照的だ。自己の象徴を内有する存在ではない。外側の殻に合わせて、内側を変化させている。悪いことだとは思わない。そういう在り方もあるだろう。
「でも、志野君すごく早かったじゃない? 世界史のテストとか――」と彼女は言った。
ほんの一瞬だけ、狼狽しそうになるけれど、すぐに気持ちを落ち着かせた。彼女の言葉は譜面通りで、別に含みがあるわけではない。ただの世間話。カンニングとは違って、物理的な証拠がこの場所にあるわけではないのだ。焦る必要はない。
「そうかな。まあ、暗記科目は得意なほうだから」
「じゃあ、明日の倫理も得意分野だったり?」
「だったり、するね」
「いいなあ。暗記とか苦手だからさ、私。理数系は得意なんだけど」
「へえ」
「だから今日は、ねえ、正直、微妙だったかなあって」
「そう」
無意味な言葉の応酬。笑顔で喋る価値さえ、見出せない。でも、そう感じる僕が異端なのだろう。円滑な人間関係、というやつを営むには、こういう中身のない会話も必要だということは知っていた。それが女子という生き物ならば尚更だ。
「まあ、明日頑張ればいいじゃない」と僕は適当に返答した。
「うん。そだね」
「じゃあ、僕行くから」
「え?」
「また明日。白川さん」
彼女はまだ何か言いたそうな様子だったけれど、とりつく島を与えなかった。生徒用玄関を足早に通り過ぎて、校門へと足を運んだ。
その夜。テスト勉強にも倦み始めてきた頃、そのタイミングを待っていたかのように沢崎から電話がかかってきた。
『今からうちで飲まないか?』と馬鹿げたことを彼は言った。聞き間違いかと思った。もう一杯やっているのかもしれない。非常にだらけた声だった。
「あのさ、明日もテストだよ」
『だから?』
「勉強しないと」
『お勉強しないと!』 茶化すように復唱して笑う沢崎。
『どうせあと二教科は、満点に近い出来なんだ。どうして勉強する必要がある?』
「他の教科はどうする」
『どうもしない。うちは総合評価で進級が決まるんだろ。これで三百点近く取っていれば、あとの教科は適当に空欄埋めとけばいい。別に難しい話じゃない。赤点と零点の間くらいでいいんだ。ギリギリで一学期分のノルマは稼げるだろ。多分』
「そりゃそうだけど」僕は息をもらす。
『なあ志野。考えてみてくれ。赤信号の道路を渡るのはなぜいけない?』
「車が通って、危険だから」
『そう。車が通らないなら渡ってもいいんだよ』
「まあね」僕は頷く。
『だろ。何もない道路で信号が赤だからって止まっている奴は思考が停止しているんだよ。そもそも危険を遠ざけるためにルールがあるのにだ、存在しない危険を回避するために立ち止まるなんて、変な話だ。人間のためにルールがあるんじゃなくて、ルールを守るために人間がいるみたいじゃないか』
「でも、きっとそれが賢い生き方なんだろうね。何かに縛られていて、それでもその現状に疑問を抱かないのは、楽なことだと思うよ。否定はしない」
『世の中には楽だけど楽しくない生き方と、楽じゃないけど楽しい生き方と、あともうひとつの生き方がある』
「どんな生き方?」
『俺の生き方』
「否定できるかな?」
『したいならうちに来い。経験もせずに否定されたくはない』
「ピザは?」
『あるよ』
「ビールも?」
『お子様用にオレンジジュースもな』