凪いだ海に落とした魔法は 1話-8
「なあ、お前はさ、この街を出たいと思うことはある?」
ある日、学校で原口にそんなことを訊いてみた。
「何それ。この街を出るって、卒業してからの話?」
「いや、進路の話じゃなくて。例えばさ、バイクに乗って知らない街に行ってみるとか、自転車で日本一周してみたいとか。そういうやつ」
原口はきょとんとした顔で僕を見たあと、やがて得心がいったように苦笑する。温度のない投げ遣りな笑い方で、沢崎とは対極的だった。
「ああ、その手の話ね。思い出作りとか、青春の1ページとかいうやつ? あまり興味ないかな、俺は。悪くないとは思うけど、自分でやろうとは思わないよ」
結局、言葉にしてしまえばそういうことなのだろう。十代の思い出に刻まれたチープな感傷。永久保存のタグを付けて厳重に保管するべき象徴的記憶。何年かあとになって、アルバムを開くように思い出す鮮やかな青の印象を、僕たちは求めていたのかもしれない。実に陳腐で微笑ましい。普遍的な欲求じゃないか。
きっと、沢崎と出会う前に同じ質問をされていたら、僕も原口と同意見だっただろう。魅力があるのは分かるけれど、自分で試すようなことではい。
でも、今の僕はその衝動を抑えることができなかった。
沢崎の火種から貰った熱が、胸の奥で燻り続けている。
孵化する直前の卵のように。あるいは、弾倉の中で静かに炸裂の時を待つ鉛弾のように、行き場を求めた熱量が躯の中心で揺らめいていた。
時に、理由もなく胸を掻きむしって叫び出したくなる瞬間がある。
常に、此処ではない何処かへと想いを巡らせていた。
目を閉ざし、耳を塞いで、僕は渇望に鈍感であろうとしていた。諦念と達観で作られた檻の中、模範的に刑期を全うしようとする囚人のように、ただ黙して時の恵みが胸のたぎりを冷ましてくれるのを待ち侘びていた。
しかしあの日、やり場のない焦燥感にうずくまっていた僕に、沢崎拓也はこっそりとその発露を教えてくれたのだ。同じ渇望を当たり前のように飼い慣らす彼の言葉に、僕は好奇心に満ちた子供みたいに打ち震え、いとも容易く感化されてしまった。
正直なところ、僕は僕自身の変化が怖かった。このやり切れない焦燥感の全貌を認め、立ち向かう覚悟を決めたところで、後に残るのは祭りの終わりの静けさにも似た虚無感だけではないのかと、そんな不安に襲われることもある。不毛の大地と知らずに慈雨を待ち望む憐れな開拓民のように、ただ無意味にあがいているだけではないのだろうかと。
それでも、もう元には戻れないのだろうなと僕は思う。
例え行く先に壁や穴が待ち受けていたとしても、坂を転がり始めた岩が止まれないように、僕もまた手に負えない焦燥を抱きながら転がり続けるしかないのだろう。
――バイクに乗って、何処か遠くへと旅立とう。
大人になって振り返ったとき、思わず赤面してしまうような、手垢の付いたキャッチフレーズの冒険談。そんなものを切実なまでに求めてしまう僕たちは、きっと愚かなまでに健気で、呆れるまでに滑稽で――それでも、眩しくなるほどに真剣な馬鹿野郎だった。
――ああ、馬鹿って感染するんだな。
人気のない無人駅の公園で沢崎と話す度に、僕はそんな風に思って密かに苦笑した。
でも、きっとこんな馬鹿ができるのは今だけなのだろうな。大人になれば、この胸を燃やすような焦燥感も忘れてしまう日がくるのだろう。そんな確信があったからこそ、僕たちは飽きもせずに下らない計画を語り合うのだった。
僕と沢崎は二日に一度は無人駅で落ち合った。その都度バイク雑誌の付録カタログなんかを持ち寄っては、秘密基地で秘め事を語る少年のように夢の形を組み上げていった。学校では関わることのない二人が、人目を忍ぶように密会を重ねる姿は、男同士でなければさぞかし逢瀬めいて見えたことだろう。