凪いだ海に落とした魔法は 1話-6
「お前はさ、行ってみたいと思わね? ずっと遠くに」
二十分も話したころ、夢を語る人間に特有の熱っぽさで、こいつはそんなことを口にした。
「どうやって?」と僕は訊き返す。
「バイクだよ。バイク」
そう言って、彼は恥ずかしげもなく手を広げ、天を仰いだ。まるで目の前に広がった壮大な光景の全てを、その両手にすっぽりと収めるようにして。
「何かさ――わくわくするだろ。冒険だよ、冒険。自分のことを誰も知らない街とか、産まれて初めて通る道とか。心がうずうずするだろうが」
ガキかよ、お前――。そう笑い飛ばすことができなかったのは、何故だろう。僕は彼の持つ見知らぬ感情を不思議に思いながら、黙ってその言葉の続きを待っていた。
「何て言うかさ、実感できるだろ。この世界が全てなんかじゃねえって――。俺らが立ってる場所が馬鹿らしく思えるくらい、アホみいに広い世界が世の中にはあるんだってこと。ここに来るたびに思うんだよな、俺」
――返す言葉がなかった。ここは世界の最涯で、行き止まり。そう信じていた僕とは正反対の価値観を持つ沢崎を、僕は笑うことができなかった。
チープなドラマみたいな、臭い台詞。それが、致命傷だった。
僕が押しても引いても開くことのなかったドアを、奴はあっさりと横にスライドさせて開いてしまった。そんな感じだ。
こんな場所で、僕を相手に、そんなことを真顔で言われたら――崩れてしまう。今まで積み上げてきたバリケードにも似た何かが。
この場所の、さらに先?
「レーサーとか、夢だったね。ガキの頃は」
照れも気まずさもなく子供の頃の夢を語るには、僕は少し、大人に近づきすぎた。そんな僕の思いとは対照的に、こいつは軽快に笑いながら言うのだった。
「取り敢えずさ、自分の力で脱出しないと」
「この街から?」
「そう。こんな濁った海の匂いしかしない街より、もっと広い世界を」
「一体どうやってだよ」と僕は言った。やっと笑い飛ばす余裕ができた。でも、それは飽くまでポーズだった。
彼の次の言葉を、まるで高名な神官の御託宣みたいに待ちわびている自分がいた。
「だから、夏休みにでもさ、旅に出るんだよ」と彼は言った。
「はあ?」
「いや、それしかないだろ。実際的に」
今度こそ、僕は笑い飛ばした。随分と妥協したものだ。
「何だか、急にスケールの小さい話になったな」
「そうか?」
何て馬鹿そうな奴だろう。そんな印象にも関わらず、僕は自然と想像していた。
夏の風を切りながら、何処か遠くの知らない道を、過去に置き去りにしていく旅。最初こそ虚しさを想像し溜め息が出る気もしたが、次第にその景色が蠱惑的に思えてきた。