凪いだ海に落とした魔法は 1話-5
気が付けば、僕はフェンスを乗り越え、ベンチに座っている彼に歩み寄っていた。彼が自分と同じ高校の制服を着ていたことも、手にしていたタバコの箱が自分の父親と同じ銘柄だったことも、ついでに言えば彼が履いていたエアフォース1まで僕と同じ物だったことも、全てが僕を引き付けるために用意されているような錯覚を覚えた。全ては誰かが用意してくれた演出なのだと。もしそうなら、彼に話しかけるという役割をこなしてやる必要がある。
「隣、いいかな?」と僕は彼の隣の空間を指差し、訊いた。怪訝な顔もせずに、かと言って好奇心を覗かせるわけでもなく、至ってニュートラルな表情のまま、彼は呟いた。
「それは俺の自由じゃないな」
「誰の自由?」
「あのな。ベンチってのは、注意書きなんてなくても、"御自由にお座り下さい"って意味を持つ椅子なんだ」
「確かに。自由はそもそも公共的なものか」
「そうそう。先客がいようがいまいが、ベンチにケツを乗せる許可なんざ必要ない」
僕は頷き、彼の隣に腰を下ろした。彼我1メートルの距離。それが僕の"自由"が許されるギリギリの範囲のような気がした。個人の自由に他人の自由を侵す権利は含まれてはいない。ベンチに座ることだって例外ではないのだ。そこからそこまでが彼の自由領域で、ここからここまでが僕の自由領域で――。
「で、誰、お前」
それは独り言のような素っ気なさで、僕の耳に届いた。目の前を横切る蜜蜂に問いかけたようでもあったし、あるいは僕の目には見えない、もっと茫漠とした何かに投げ掛けた言葉のにも思えた。充分な時間差をかけて当たり前の疑問を口にした彼に、何と答えようか少し迷った。
「勝手に決めろよ」
「何?」
「僕が君に取って何なのか。それを決めるのは僕じゃない。君の自由だろ」
「変な奴」と彼は笑った。
「そう思うのも君の自由だ」
それっきり、彼は黙って煙草を吸いながら海を眺めていた。嫌味を感じさせない端正な顔立ちは、さぞかし女受けのいいことだろう。少し体を動かす度にベンチは軋み、抗議の声を上げた。海鴎の鳴き声とよく似た音だった。炙るような日差しに肌からは汗が浮き出て、微風がそれを冷やす心地よさに僕は目を細めた。沈黙が生むはずの気まずさまでもが風に流され、溶けていった。
「その変な奴に、訊くけどさ」とやがて彼は口を開いた。
「何だよ」
「もしかして、一年?」
「君も?」
ああ。と彼は頷き、落とした煙草を靴の裏で揉み消した。初夏の風はあっという間に煙草の残り香を運び去り、代わりに潮の匂いを落としていった。
「サボタージュ?」と彼は訊ねる。
「課外授業中に見えるかよ」と僕は言った。何が可笑しかったのか、彼はその答えに屈託なく笑い、手の中でライターを弄んだ。
「学校サボってこんな場所にくる物好きなんて、俺だけだと思ってたね。しかも同じ高校で、同じ一年で――」
「試験前だってのにな」
うげっ、と顔をしかめて彼は舌を出す。
「思い出させるなよ」
「忘れていいもんでもないだろ」
「俺は、もう覚悟を決めた。今、決めたね」
「成績次第じゃ補習で夏休みが潰される。その覚悟は、僕にはない」
――気付けば、僕らは随分と長いこと話し込んでいた。奇跡的なことだと言ってもいい。出会ったばかりの相手に、僕が中学時代に恋をして振られた女子の話をしたことも、彼が密かに抱いている夢を聞き出したことも、僕の想定していた会話の内容を越えていた。不思議な体験だった。見知らぬ相手とこんなに多くの言葉を交わすことが苦痛でないなんて。僕が他人との間に引いている一線。こいつはそれをちょっとした段差でも跨ぐみたいに、易々と越えてしまった。何がそうさせたのかは分からない。ただ、それを不快だと感じる自分が何処にもいないことに、僕は少しだけ、沸き立つ気持ちを自覚していた。