凪いだ海に落とした魔法は 1話-3
日下部沙耶と沢崎拓也。僕らの学年には二人の有名人がいた。
ただそれだけのことだ。僕には関係ない。家に帰ってシャワーを浴びてベッドに入る。そして朝が来れば、二人にまつわる噂話なんて、思い出すことはないだろう。
もし僕が二人の内のどちらかと話す機会があったとしても、“特別な物語”が始まることはないだろう。僕は凡庸で平均的な役者であり、二人のように特別な役処を与えられたマイノリティではないのだから、と自覚している。出会えば必ず何かが起こるのはドラマの中だけで充分。ほとんどの人間にとって人生とは期待値を下回る結果を出すものだ、と認識しておかないと、いつか現実とのギャップに苦しむことになる。
生きていれば、取り立てて何でもない出逢いがあることを、知る機会もある。世界は匿名的なエキストラで溢れていて、重要なキャストなんていうのは、身近にいる数人だけ。
エキストラと俳優が出会ったところで、何も物語なんて始まらない。出会って、話して、別れを告げて、その直後には他人になる。そしてもう逢うことはない。世の中とはそういう仕組みで動いているものだし、日下部沙耶と沢崎拓也もその仕組みのひとつに過ぎなかった。
――そうであるはずだった。けれど、そうはならなかった。
日下部沙耶はすれ違うだけのエキストラではなかった。
沢崎拓也も、僕がその噂を耳にするだけで役目の終わる人物ではなかった。
僕の物語において、二人は極めて重要なキャストを任されていたのだ。
――僕が語る物語は、16の夏から始まる。
岸辺のテトラポッドの上に腰掛けて、海に浮かぶディンギーヨットを僕はぼんやりと眺めていた。色褪せたジーンズのように軽薄な青を湛えた海。洗いざらしのTシャツのように真っ白な雲。簡潔化されたラフな景色。風は七月の光を道連れにして潮の香りを運んでくる。
何かに助けを求めるような海鴎の鳴き声が甲高く響き、時折、すぐ側から聞こえてくる工場の機械音がそれに重なった。
埋め立て地の外れにある、うらぶれた小さな無人駅で乗降する者は、さほど多くはない。平日の朝と夕方、背広姿のサラリーマンと作業着姿の中年男性を除けば、その数は限りなく0に近づく。理由は簡単だった。改札を抜けた先には工場しかないのだ。一般人が立ち入れるのは、ホームの奥にあるベンチが申し訳程度に並ぶだけの公園のみ。平日の昼間に用事もなく、ただ暇を潰しに訪れるような場所じゃない。そんな物好きは、僕だけだった。