凪いだ海に落とした魔法は 1話-19
「これは、笑えないな」と僕は言った。
「笑えよ」と彼は薄く笑う。
「これ、過去の?」
「来週のだよ」
「来週の――?」
「そう。来週の、期末テストの問題用紙。英語の他にも、倫理と世界史もある」
「盗んだのか?」
「拾ったんだ」
「それはいいね。職員室の机に落ちてたのを拾ったわけだ」
「まあそんなとこ」
「名前も書いてなかったし?」
「名前?」
沢崎は気の利いたジョークでも聞いたみたいに笑ったけど、それが僕の笑いまで誘うことはなかった。笑い事じゃない。
「それ、本当に落ちてたのか? その、職員室の机の上に」と僕は訊いた。
「ちょっと用事があって職員室に行ったんだけどな、誰もいなかった。それでふと見てみたら、相良のパソコンが目に入った。イジってみたら、こいつが出てきた」
信じ難い言葉だった。その言葉を発した彼の口を数秒間、僕は見続けた。善悪の概念が逆の世界にでも繋がっているんじゃないだろうか。四次元的マウス。
「まあ、いじる時点でどうかしているね」と僕は小声で言った。
「そしたらもう、印刷ボタンをクリックするだろ?」
「するかよバカ。それが当たり前のように言うな。自販機に金を入れた後じゃないんだから」
「マジで?」
「普通はね。クレイジーだよ」と僕は言った。それがまともな行動だとしたら、僕はこの世界の全てに嫌疑の眼差しを向けなければならない。狂気と正気の逆転現象など受け入れられるか。
「相良って世界史も担当してたよなって思い出してさ、探して、見つけて、クリック。ほんの数秒さ。プリンタなんてどこに置いてあるか知らなかったけど、職員室の端から音がしたから行ってみたわけ。すると、魔法みたいにこいつが出来てた」
沢崎は楽しそうに煙草に火を着けた。何本吸う気だ。
「英語はどうした。相良のパソコンに入ってるわけないだろ」
「そりゃあ新川のパソコンに入ってたさ。席、隣同士だろ」
ちょっと待て。僕は少しテーブルに身を乗り出した。
「そもそも、いつそんなことが出来るんだよ。夜中に学校に忍び込んだのか」
「まさか。それなら全部のパソコン漁ってるさ。昨日の四時間目の、授業中だ」
記憶を辿る。避難訓練のあった時間だ。確かにその時間なら職員室だってもぬけの殻だろう。
「時間的にはこれで限界だった。こいつらをコンビニでコピーして、今ここに」
「コピーしたってことは、一人で活用する気じゃないんだな」
「俺はそんなに狭量な男じゃないよ」沢崎は、乾いた咳をして笑った。
「売りさばく気か」と僕は言った。
「正解」と彼は言った。
「僕に?」
「いや」
「僕ら、が?」
「正解」
僕は深く息を吸い込んだ。吸ってもいない煙草の匂いが不快で、ため息と一緒に全部吐き出した。胸に溜まった反発感は、空気に触れた瞬間に、呆れに変わった。駄目だこいつ。真性の馬鹿だ。手に負えない。
「志野。お前にこいつらを売ってもらいたいんだ」
沢崎は白い歯を見せて口の端を広げた。精悍な顔に受かんだ稚気の色が、僕を憂鬱にさせる。悪魔はいつだって微笑みとともに囁いてくるのだ。