Island Fiction最終回-1
スミレ姉様が死んだあの時、部屋を逃げ出すわたしをアザレアは追ってこなかった。
それどころか、待ってるわ、とわたしを挑発し、こう付け加えた。
「わたしたちを蔑ろにしてきたこの世界に復讐してやろうよ」
こんな低俗な誘い文句にわたしが乗ってくると、彼女は考えている。
手ぐすね引いて待ち構えているところへ、わたしがノコノコとやって来ると、彼女は思っている。
その通りだけに、アザレアに対しても、わたし自身に対しても、腹が立った。
わたしは船上にいる。
クルーザーのデッキの上だ。
鉛色に淀んだ海の向こうには霞がかかった島が望める。
わたしが人生の大半を過ごした故郷の島だ。
アザレアが待っているとすればあの場所しかない。
「これから話すことに異論はあるでしょうが、最後まで聞いてください」
と、トウゴウは前置きをした。
トウゴウは奴隷と女王様というスタンスを崩さず、相変わらず気持ち悪い男だった。
カーキ色の訳の分からないカメラマンジャケットに、昼間食べたカレーうどんの汁が染みになっている。
とことんわたしを不愉快にさせるつもりらしい。
けれども、わたしには他に頼れる人間がいないのだ。
キモオタでマゾのトウゴウは見かけによらず船舶免許を持っていて、クルーザーをレンタルしてくれた。
そして、何よりも、彼は情報を持っていた。
「分かってる。この身をもって思い知ったから」
トウゴウはスミレ姉様の死をわたしから知らされた時、悲しみで胸が押しつぶされそうになって一頻りに泣いた。
わたしは人のために涙を流す人間を初めて見た。
トウゴウの姉様への愛は本物だった。
トウゴウは大学病院の事務員だった。
そこへ出産のために入院してきたスミレ姉様と出会い、彼の運命が変わった。
トウゴウは姉様に一目惚れした。
身の程知らずだとしても、彼を責めるわけにはいかない。
スミレ姉様の美貌が罪なのだ。
トウゴウは姉様と共にいろいろと調べていた。
これまでわたしが目を背けてきたお父様の過去についてだ。
「彼は湯島家の長男で、庭の昆虫を一日中眺めて過ごすような、とても大人しい子供で、小学生の頃の夢は昆虫博士だったそうです。ちょっと笑っちゃいますよね」
トウゴウはわたしを和まそうとして笑った。
残念ながらわたしの緊張をほぐすには至らず、トウゴウは取り繕うように咳払いをして真顔に戻った。
「あの島には旧日本軍の研究所があったのを知ってますか?」
当然、わたしが知っているわけがない。
首を横に振ると、トウゴウはそのまま話を進めた。
「その陸軍の、久坂機関と呼ばれる特務機関が行っていたのが、人体実験でした。人間に病原菌を注射するとか、生きたまま解剖するとか、日本軍の731部隊やナチスのメンゲレが行ったみたいな実験とは違っていました。それが洗脳術です。薬学的な方向からと、サブリミナル効果の一種を利用したものと、二つのアプローチがあったようです。敗戦が濃厚となって研究所は閉鎖へ追いやられましたが、理論はほぼ確立していたようです」
わたしは黙って耳を傾けていたけれど、ほとんど頭には入ってこなかった。
大概の男は歴史物や伝記物が好きなものだ。
ハンニバルがどう戦っただとか、三国志とか、川中島の合戦はどうだったとか、龍馬がどうしたとか、目を輝かせる。
一つ勘違いして欲しくないのは、当然相手も好きなのだと思わないで欲しいということだ。
わたしは歴史物が苦手なのだ。