恋愛小説(4)-6
「最近ね、覚えたんだ」
「へぇ。何故ですか?」
「さぁ。なんとなくだよ。無ければ吸わないし、あれば吸う」
「でも、無くなれば買い足すんですよね?」
「そうだね。そうかもしれない。でも少なくとも明日の朝までは禁煙することになりそうだ」
「ん?何故ですか?」
「これが最後の一本だったからさ」
僕は最後の一本を、出来るだけ丁寧に喫煙した。一口一口を味わい、それを記憶するように吐いた。煙は他人みたいに冷たく消えていった。
「先輩、煙草似合わないですねぇ」
「ん?そう?」
「はい!なんか先輩って、高校の頃からスポーツマンって感じでしたから」
「三年間ベンチだったけどね」
「最後の方は出てたじゃないですか」
「交代要員として、ね」
彼女は高校時代、僕が所属していたサッカー部のマネージャーだった。
「あの頃も先輩。格好良かったですよ?」
「あの頃“の”僕?」
「いえ、あの頃“も”、です」
その言葉に、僕は何も言わなかった。
◇
川の水は冷たくって、綺麗だった。どこか別世界から流れてくるような、嘘みたいな美しさだ。それは僕の足を滑り、彼女の足を滑り、そして川下へと無言で滑っていった。次々と流れてくる清流に、僕は一瞬、目眩をしたかの様な錯覚を覚えた。この水はどこから来て、どこを通り、どこに向かうのだろうか。それは僕の先の将来を暗示しているみたいに、不安定で、親密に感じた。
「冷たいですね。気持ちいい」
「突然だけど、桜井さんは、好きな人、いる?」
言ってから僕は自分でびっくりした。何を話しているのだろう。全くの無意識といって良かった。僕が僕自身の言葉を理解するのに、少しの空白が必要だった。
「……それは、恋をしているか、という質問ですか?」
「そうかもしれない」
「そうじゃないかもしれない?」
「そうじゃないかもしれない」
「好きな人は、います」
「誰?」
「それを聞いて、どうするんですか?」
わからなかった。僕が何故こんなことを聞いているのかさえも。
「わからない」
「でも聞かずにいられない?」
「そうかもしれない」
「そうじゃないかもしれない?」
僕は一つ、頷いた。マリオネットの様な、奇妙な動き方だったかもしれない。
「先輩には、あまり言いたくありませんね」
「どうして?」
「さぁ。どうしてでしょう」
それはある種の答えであった。答えない、という答えは、多くの意味を持つ答えと言える。その頃には僕の心は幾分か落ち着いていて、僕は自身が混乱していることを認識した。それを認識した所で、コントロールできるものでは、もちろん無かったのだけれど。
□
「それで、ひーちゃんはどうしたの?」
「どうもしないさ。その晩千明と星を見て、次の日帰った。なにも起こらなかった。“起こらなかった”ということが起こった。だから僕は、失恋したんだ」
夜は深く成り、星はますます輝きを増していた。僕は今日何本か目の煙草に火をつけ、それを吸わずに指に挟んだ。なにも考えられなかった。考えることをしなかった。
「なぜ?」
「ん?なんのこと?」
「なぜ何もなかったことが、失恋したと言えるの?ひーちゃんは告白した訳でもないのに」
「彼女に恋人が出来たからさ。夏季キャンプから帰って、しばらくしてからのことだったかな」
「だから、失恋したんですか?」
「相対的にはそう言えると思う。言語的な正確さを求めるなら、今現在失恋している、だね」
音は無かった。風は少しあったが、それは凄まじく冷たかった。僕は何も言わず、葵ちゃんの肩に自分のカーディガンを羽織らせた。それは合図だった。僕にはもう、話すことは何も無かったから。