Somewhere no here-5
<僕>は氷を割る音を聞きながら、テレビの液晶画面に映し出される客席とそこに座る人たち(多くは白人だった)を眺めながら、キッチンでこの部屋の主である男が優雅に氷を割る様を想像する。男は鋭い、よく手入れのされたアイスピックを用いて氷を割る。
と、テレビの映像ではステージの上に一人の男が片手を挙げ、音がないのでよくは分からないが恐らくは観客たちの歓声に応えるような格好で笑顔を振りまきながら出てくる。カメラはその男をアップにする。あ、と<僕>は思う。それはこの部屋の主であるあの男だ。そして、男にはまだ両腕がある。これはあの男の過去の映像なのだ。
映像の中の男はステージの真ん中に立ち、一礼をする。しばし間があって、ステージの脇から脚車のついたテーブルが運ばれてくる。続いて、何か大きな箱のようなものが運ばれ、テーブルの前に置かれる。男は箱を開け、中から大きな塊を取り出す。それは氷だった。透き通った美しい氷だ。男は左手にアイスピックを持ち、それを振るって氷を割り始める。その様が先ほどの<僕>の妄想と重なり、<僕>は混乱する。軽いデジャビュ。映像の中の男は、<僕>の想像と同じように優雅で一切の無駄のない動きで氷を割る。それに合わせて部屋の中に再びその音が響き渡る。
ガツン・カラン・・・。ガツン・カラン・・・。
目の前にペリエの注がれたグラスを差し出されて、<僕>は我に返った。この部屋の中の現実の男が目の前に立っている。「ありがとうございます」と小さな声で<僕>は言って、ペリエをそのまま一息に全部飲んでしまって、随分と喉が渇いていたんだと思う。体に水分が補給されると、体調も少しはマシになったような気がした。男は何も言わず、ペリエを再び注いでくれる。<僕>はそれを再び一息で飲み干し、息を吐き出す。
「美味しいです」
「砂漠の旅人みたいだ」と言って男は笑う。
<僕>はグラスの中の氷を眺めている。グラスの中の氷に僅かに違和感を感じる。映像の中の男の優雅な振る舞いと、その芸術的な技術によって割られたであろう氷と、実際に今グラスの中に入っている氷とが上手く結びつかなかったからだ。グラスの中の氷には目を引くような美しさはない。冷蔵庫の製氷機で作られた氷のような儚さがそこには漂っている。
<僕>はふと映像に視線を向ける。映像の中の男はすでに演技を終えていて、カメラはアップで割られた氷を映し出す。それはとても美しい形をしている。芸術的な色合いを持っている。カメラはステージを離れ、客席を映し出す。スタンディングオーベーション。映像に音がないのが悔やまれる。彼らは恐らくこんな事を言っている。ブラヴォー! C'est quelle belle glace!
そして<僕>は気がつく。先ほど映像の中で氷を割っていた男の姿と、そして実際に今<僕>の側に立っている男の姿を重ね合わせる。映像の中の男は、左手にアイスピックを握り、氷を割っていた。そして、現実に目の前に立っているその男に左腕はない。間違いない。彼は利き腕を失ったのだ。
「君と同じだよ」と男は言った。「君と同じように、私は大切なものを失った。もう今ではあの頃のように上手に氷を割ることは出来ない。あのステージに立つことはもう出来ない。あの美しい氷を創り出すことは私にはもう出来ない。もしかしたら、氷を割ることなんていうのは他人からしたら大したことではないのかもしれない。でも、私にとってはそれは凄く大きな問題だった。私はもう一度氷を割りたいと考えている。そして、君はもう一度大切な人に会いたいと考えている。違うかな?」
そうです、と<僕>は応えた。