恋愛小説(3)-9
「ひーちゃん?」
そんな声がしたのは、随分と時間がたってからだった様に思う(時間の感覚を麻痺させるほどの闇なのだ。時として、闇は時の概念すらも変えてしまう)。声がした方を向くと黒いシルエットが、かろうじて女性だと判断させる。声からして、恐らく葵ちゃんであろう(顔が全く見えないのでそこに自信は持てない)。
「なに?どうしたの?」
「はぁ。よかったぁ見つかって。遠くからじゃ誰が誰だがわからなくって。何してるの?」
「ん?うん。星を見てた」
夏の大三角?アルタイル?ベガ?白鳥座?僕にとってそれは単なる記号でしかない。よくもまぁそんなので天文サークルが三年も続くものだと僕自身も思っている。星は星でしかなく、月は月でしか、僕にはありえない。それが綺麗であるならば、僕はそれでいいと思っている。
「綺麗だね」
「そうだね」
「うん?そこは君の方が綺麗だよ、って言うところだよ、ひーちゃん?」
「気が利かなくてごめん」
「うそ。私、あれより綺麗な自信ないもん」
言葉にならない美しさ、というものがもしも存在するならば、このことを言うのかも知れなかった。どんな文豪の表現だろうと、どんな俳人の表現であろうと、この景観の前では霞んでしまう。僕だって、千の言葉を並べても、この景色を表現する事はできない。
「ねぇひーちゃん?」
「ん?」
「私、ひーちゃんの好きな人のこと、聞きたいかも」
「……長いよ?」
「うん。覚悟してる。聞かせて?」
「眠っちゃうかも」
「寝ちゃいそうになったら、ひーちゃんが優しく起こしてくれるんでしょ?」
「やれやれ」
「寝ても良いから聞きたいな?ひーちゃんが、どんな恋をしているのかってこと」
そんなに遠い記憶でもない。ノックをすれば、すぐにでも返事が返ってくる場所に、それは眠っている。いや、違う。僕が意識的に眠らせている。ふとしたキッカケで冬眠から覚め、僕の身体の隅々で大声を上げながら暴れ、気が澄むとまた眠り込んでしまう厄介な奴だ。
「聞いたって、おもしろくもなんともないんだけどなぁ」
「けど聞きたい。……ダメ?」
この申し出を、僕は断ることも出来たのにしなかった。僕がどこかで、楽になりたかったのだけなのかも知れない。
続く。