恋愛小説(2)-10
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しばらくすると、千明から電話があった。講義が終わったらしい。電話越しに「おなかすいたー」と連呼を繰り返したのは、僕らがまだ食堂にいる事を見越してるからかも知れない。
「今食堂にいるからおいでよ。何か余ってるかもしれない」
「うー、でもお金ないー」
「わかったわかった。千円以内ならオゴってあげるから」
「ひゃっほー!ちーくん、ゴチになりまーす!」
電話の向こうで手を叩いて喜んでいるのかも知れない。それが簡単に想像出来る分、質が悪いと言える。あいかわらず良くわからない奇声をあげていたから、僕は電話を切った。あと十分もすれば来るだろう。
「あの、失礼かもしれないんですけど、尋ねてもいいですか?」
電話を切ったのほぼ同時に、葵ちゃんはそう言った。視線が左右に揺れ、何かに迷っているようにも見えた。
「ん?かまわないよ?」
「ひーちゃんと井上先輩は、その、なんですか、なんといいますか……」
「どうしたの?千明と僕が、どうかした?」
「えっと、その……つき合ってらっしゃるのかな、と」
葵ちゃんがそう勘違いするのも、僕はしかたないと思う。大丈夫、いつものように説明すればいいだけだから。
「そうみえる?」
「そうみえます」
「今度は先読みしないんだね?」
「……はい」
僕はどう言えばいいのだろう。千明は僕のことを好きで、僕には好きな人がいて、その人には彼氏がいて、僕らはなぜか一緒にいる、ということを正直に伝えればいいのだろうか。少なくとも今あげた言葉に、嘘はない。どれも選りすぐりの真実ばかりだ。でも、だから、現実を難しくしているのも、また真実だった。
「結論から言えば、僕と千明は交際はしていない」
「交際“は”?」
「そう、関係として、恋人という関係ではない」
「ひーちゃんがあえてそういう表現をするということは、他になにかあるんですね?」
聡い娘だ、僕は思った。大学に入り立ての時、僕はこんなに言葉の端までに注意を払っていただろうか。
「うん。ただ恋人じゃないという関係だけど、僕のことを好きだ、と千明は言ってくれている」
「千明先輩“は”?」
「そう、千明はね」
「じゃあひーちゃんは?」
その問いに、僕は答えることができなかった。いや、答える事は出来たのだけれど、しなかった。視界の端に千明の姿を捉えたからだった。
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木村さんが念願の彼女をゲットしたのは、日差しの勢力がだんだんとその力を増し始めた、五月の事だった。桜が足早に散ってしまい、豊かな緑が眼に新しくなり始めたある日曜日、僕らは繁華街に来ていた。僕らというのは、僕と、千明と、葵ちゃんと、木村さんと、田中と、他数名のサークルメンバーだった。その数名の中に木村さんの新彼女もいた。名を村田といった。
「おい木村田。うっとうしいから引っ付くのをやめろ。今日はあくまでサークルでの活動だ。お前ら二人のデートではない」
そういらただしげに言ったのは最年長の日高さんで、かれは我が大学に八年も通う長老的存在だ。彼は天文サークルに所属していたが、実質的にOB扱いを受けているイレギュラーな存在で、今日はただ暇だからという理由で参加している。暇なら、勉強の一つでもすればいいのにとサークル内の全ての人は思っているのだが、小学校の低学年と高学年の差ほど離れている人に、そんなことは言えないのであった。
木村さんと村田さんのカップルは、サークル内では愛嬌と憤慨の気持ちを込め『木村田』と呼ばれていた。日高さん曰く、素晴らしいネーミングセンスだ、そうだ。そのネーミングセンスを発揮したのはやはり千明だった。