恋愛小説(1)-17
「うん。でもな?ちーくんが優しく私を抱き寄せてくれたとき、私、すっごい幸せやったんやから。やし、たまにそういことしてくれたら、それでいい。待つから。私」
この時の千明の顔を、僕は後世忘れる事ができないだろう。人はこんな表情もできるのだ、と僕の頭は嫌に冷静になっていた。いや、もしかしたらオーバーヒートの間違いだったのかもしれない。
「うん、ありがとう」
「ちーくん、優柔不断やからなぁ。たぶんこうなるんじゃないかなって思ってた」
「いつから?」
「ん?」
「その、いつから、その……なんていうか、僕のことを?」
「そんなん、最初っからやん」
「最初?」
「うん、最初」
「最初っていうのは、やっぱり新入生歓迎会からってこと?」
そうだったのだろうか。千明の仕草や行動に、そんなメッセージはあったのだろうか。
「ちゃうよ。たぶん生まれる前からやん」
◇
一陣の風が通り過ぎる。風は肌にさす様な寒さを伝え、僕の腕の中で千明は少し震えていた。
僕はといえば、ずっと考えていた。心の奥の方が、なにやらざわざわする。不安にも似た感情なのだが、でもそれとは決定的に違う。理解はできない。はっきりと言える事は、嫌な感じはしないということ。
「ちーくん?」
「ん?」
「寒くない?」
「多少は」
「私ん家……行かへん?」
千明は大学の近くで一人暮らしをしている。いつか、おいしい水を飲んだ記憶が不鮮明に蘇った。
「僕はいいけど、千明は、それでいいの?」
「ん?なんで?」
「だってその、なんだろう。とにかく、一人暮らしの女性の家に、若い男が行くわけだし」
「なんもせえへんやろ?ちーくんは」
「約束しよう」
「ん。なら大丈夫。行こ?」
僕は千明の腕をそっととり、家がある方向に歩きだした。太陽が真っ赤になりながら傾いている。その光を遮る僕らの足もとに長い影ができている。僕らの足取りと同時に、影は滑る様に地表を動く。