27万6352分の1の価値-1
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そもそも拷問とは、相手からの重大な情報を引き出すために、拘束した相手に対して肉体的、あるいは精神的な苦痛を与えることを指す。1532年にドイツで制定された刑事法であるカロリナ法によれば法定拷問が認められているのは九罪、すなわち、謀殺、故殺、嬰児殺し、毒殺、横領、放火、反逆、窃盗、魔術であるが、細かな条文については僕は知らない。だから、僕が今したような、木にぐるぐると縛りつけた木村修の右耳を鋸タイプのブレードを取り付けたシステムナイフでそぎ落とし、血が滴っている患部をライターで炙り、痛い痛いもう止めてくれと言う木村修の腹を思い切り蹴りつけ、上唇と下唇を三箇所竹串で突き刺し貫通させるという行為は拷問とはいえないし、法定拷問に該当するかどうかも僕にも分からない。僕は彼から聞き出すべき情報など特に何もないのだ。
では、これは一体何を目的としたなんという行為なのだろうと、僕は涙と鼻水と唾液と血液を顔から流している木村修を見つめながら思う。しばらく考えて、これは神明裁判の一種だと僕は気づく。要するに僕は今、彼を痛めつけることによって神意を得ようとしている。そこから、何かしらの答えを得ようとしている。
僕は木村修の上唇と下唇を突き刺した竹串を一本一本抜いていく。彼は悲痛な表情で叫び声をあげそうになるが、まだ竹串が突き刺さっている状況でそれをすれば唇が引き裂かれてしまうから声にならない声を腹の底からうめくように発するに留まる。最後の一本を抜き終えると、彼は肩ではあはあと息を吐き出しながら、もう満足か、と聞く。
「まだだよ」と僕は言う。「あんたはまだ死んでいない。あんたは知るべきだ。あんたが痛めつけてきた人たちの痛みを。ルカは孤独と後悔で苦しんだ挙句死んだ。ルカの子供は何も知らないうちに、何も出来ないままに死んだ」
「そのルカを殺したのはお前なんだろうが。クソ。この偽善者ヤロー」
「別に善だとは思ってねーよ。だから偽善じゃない。俺はただ、あんたが憎い」
「あのなあ、ガキを堕ろしてる奴らなんか、腐るほどいるんだぜ?」
「知ってる。厚生労働省によれば、平成18年度の日本においての中絶件数は27万6352件だ。だから、あんたのはその27万6352分の1に過ぎないな。でも、問題はそんなことじゃねえ。数じゃないんだよ。他の人なんて関係ないんだよ。ルカの子供は、この世界にたった一人、だった。一人ひとりが特別なんだよ。分かってのかよ」
僕がそう言うと、木村修が急に黙り込む。どこかから小さな羽虫が飛んできて、僕の顔の周りにうるさくまとわりつくが僕は気にしない。
「なあ、お前、どうして荒木を殺したんだ?」木村修の言葉に怒気は感じない。彼は、ただの純粋な興味としてそう聞いたようだった。今度は僕が黙り込む番だった。額から汗が一粒こぼれ落ちる。僕がどうしてルカを殺したか? そんなの決まっている。ルカがそれを僕に頼んだからだ。ルカがそう望んだからだ。でも、本当にそうだろうか? ルカは本当に死ぬことを望んでいたのだろうか? その疑問は、ルカを殺したあの日から常に僕に付きまとってきた疑問だ。
「お前さ、さっき荒木を殺した時のこと喋ってたじゃん? 俺思ったんだけどさ、お前さ、もしかしたら荒木が狂っちゃったから殺しちゃったんじゃねえの? 荒木が、お前の思っていたような荒木じゃなくなっちゃってビビったんじゃねえのか?」
木村修の言葉からはまるっきり僕に対する挑発を感じない。それが僕を不安にさせる。ただ彼は彼の思う意見を僕に喋っているだけだ。その事実が、僕を困惑させる。もしも彼が僕を挑発するためにそんな的外れなことを喋っているのだとしたら、僕はこんなにも不安な気持ちにはならなかった。僕が大切に抱えていた秘密の引き出しを、土足で上がりこんできた盗人に僕の目の前で一つ一つ開けられているような。そんな気分。
「それは」何か反論しようとして、でも言葉はそこで途切れる。そう言われたらそうなのかもしれないという風に思う自分もいるのだ。何故なら僕自身、何故あの時ルカの首を絞めて、そして殺したのかそれをはっきりと自覚していないからだった。でも、木村修の言うとおり、僕が変わり行くルカを見ているのに苦痛を感じ、それが動機となって彼女を殺したのだとしたら、それはつまり、僕が僕の意思で彼女を殺したということになる。