狂気の夜-1
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コンクリート造りの階段を登り、コーポグリーンパレス201号室のインターホンを鳴らしても部屋の住人は沈黙を保っていたので、僕はドアノブをまわして中に入った。久しぶりに見るルカの家の玄関。ルカの靴は新しいミュールに変わっている。
「ルカ、来たぞ」玄関から呼びかけても、ルカの返事はない。居間へと続くドアの隙間から明かりは漏れていないし、多分この向こう側には真っ暗な部屋があるのだろうと僕は思う。「入るぞ」と言って、ドアを閉め鍵をかけてから靴を脱いで居間へと移動する。吸い込んだ空気は九ヶ月以上前に遊びに来たルカの家の香りとはどこか違っていた。お香のようなにおいがする。真っ暗な居間にもルカの姿はない。部屋のカーテンは開きっぱなしで、強い雨が街を覆っているのが見える。深夜とあって、立ち並ぶ家屋のほとんどにも明かりは灯っていない。多くの人間は柔らかな布団の中ですうすうと眠っている。街灯のオレンジ色の光が雨に濡れるアスファルトを照らしている。居間の足元には女の子向けのファッション雑誌が散乱している。部屋の脇には古い新聞が重ねられていたが、途中で崩れてしまっている。寝室へと続くふすまは閉じられていて、居間にルカがいないとなれば、そこに彼女はいるはずだった。ちらりとふすまの脇にあるキッチンを覗くと洗い残しの食器が溜まりに溜まっている。
ルカらしくない部屋で、ルカらしくないキッチンだと僕は思った。北海道滝川市の短大に通っていた頃のサッカーサークルのマネージャーとしての働きぶりや、北海道帯広市に来てからのルカの生活をごく近くで見ていた僕には、それが分かる。ルカは料理もするし、ちゃんと部屋だって片付けるタイプの女の子だったはずだ。九ヶ月の間に、彼女を変える何かがあったのだろうか?
「ルカ」と、彼女の名前を呼びながら寝室へ入るふすまを開けると、ベッドの上にルカがいるのが見える。体育座りの格好をして、屈めた膝に額をくっつける格好で彼女は座っている。寝室のカーテンも開いていて、街灯の明かりがルカの姿を照らし出していた。
「一体どうしたんだよ?」僕はベッドの前で立ち止まり、少し震える声でそう言った。寝室にもお香のようなにおいが漂っていた。ルカの恋人である木村修の影響かもしれないなと僕は思う。僕の問いかけにルカは答える気はないようだった。ずっと同じ体勢のままだ。
「ルカ」と言って彼女の肩に手をかける。その時、彼女が僅かに震えていることを知る。真っ裸のまま北極に放り出されたみたいなひどい震えだった。
「ルカ」もう一度僕は彼女の名前を呼び、彼女の両肩に手を置き、揺さぶる。「ルカ、しっかりしろよ。何があったんだ?」
「・・・してなかった」「何?」「愛してなかった」「誰が?」「愛してなかった」「ルカ?」「人は誰も」「なんだよ。おい。ルカ、しっかりしろよ」震えは治まる気配がない。強弱をつけて、断続的に震えがルカを襲っている。「おい、ちょっと立てよ」ルカの手首を握って立たせようとした時、ぬめりとした感触がべっとりと僕の手にはある。はっとして手を離し、両手を見ると多量の血液が付着している。暗闇の中で見ても紅い。眩暈。「ルカ、これ、おい」と僕はほとんど泣きそうな声で言っている。「・・・いて」「何?」「抱いて」「おい、お前バカ。こんな状況で」「抱いてよ」「ルカ、手首切ったのか? 見せてみろよ」「抱いてってば!」泣き叫ぶような声に、僕はぴたりと動きを止める。その隙に、ルカの両腕が僕を抱きしめ、ルカの唇が僕の唇に重ねられる。そのままルカは僕の上に馬乗りになって、再びキスをする。僕の口の中にルカの舌が入り込んでくる。彼女の舌は柔らかくてあたたかで。でも、どこか違う。全然違う。僕はルカの額に手を当て、引き剥がそうとするがなかなか上手くいかない。「ルカ、血を止めなきゃ死んじゃうよ!」「いいよ」「何が?」「何でも」「ルカ」「抱いて」「駄目だって、ルカ」「大丈夫だから木村君みたいに私を抱いてよ!」その言葉に、僕は封印されていた嫉妬を覚える。