37頭の蜻蛉-3
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ソニー製HDDオーディオシステムのスピーカーからは、SHERBETSのNATURALというアルバムに収録されている「トラベルセンター」が小さくかかっている。居間の明かりは消えていて、ソファーのすぐ脇に設置してある間接照明の淡く柔らかな明かりが部屋を灯している。
僕は梅酒をロックで飲みながら、目を閉じて音楽に耳を澄ませていた。僕は昔から音楽を聞くのが趣味で、何をするでもなくリラックスした状態で過ごすのが好きだった。勿論、毎日夜な夜な部屋を間接照明だけにして酒を飲みながらじっくりと音楽を聴いているわけではない。大体は明るい部屋でPS2のロールプレイングゲームをやったり、漫画を読んだり、ファッション雑誌を眺めたりしている事の方が多い。その日は、そういう気分だったというだけだ。そして、そういう気分になる夜というのが、大体一ヶ月に一回くらいはあった。
ルカに恋人が出来てから、九ヶ月が過ぎていた。僕が勢い余ってルカに電話をし、その日ルカの部屋に恋人が来ていたという悲しい報せを知ってから、僕は一度も彼女に連絡を取らなかった。彼女の方からも三ヶ月前に「どう? 元気にしてる?」というような電話が来たことを除けば、一度も連絡は来なかった。九ヶ月の間、ほとんどの時間を僕は一人ぼっちで過ごしたが、特に寂しいとも感じなかった。最初の一ヶ月間は毎晩ピエトロ・ベレッタM92FSを持った暗殺者が枕元にやって来て僕の胸を打ち抜き続け、僕はその痛みに耐えていたが、一ヶ月を過ぎた頃から、暗殺者の武器は銃ではなく棍棒に変わり、来訪の回数が二日に一度になり、装備武器は針になり、爪楊枝になり、痛みは少なくなり、最期にはもう飽きたから俺はもうここへは来ないとも何も言わず姿を消した。
そうして平穏で退屈な生活を手に入れた僕は、その退屈を紛らわすために何本かのテレビゲームを買い、ジブリのアニメを借りたりした。欲求不満を解消するために何本かのアダルトDVDを借りたりもした。また、レアケースとして、どうしても寂しい夜には携帯端末のインターネットを通じて知り合った二歳年上のとてもじゃないが綺麗とはいえない女の子とヤったりした。
そしてその日、ソファーの上で梅酒をちびちび飲みながらぼんやりだらだらしていた僕の家に向けて、北朝鮮というわけではなく、他のどこかからミサイルが飛んでこようとしていることには、勿論僕は気づいていなかった。
そのミサイルが投下されたのは午前一時を少し回ったところで、外ではぱらぱらと雨が降り始めていた。カーテンの隙間から見えるオレンジ色の街灯の光が、雨でさえぎられるのが見えていた。唐突に鳴った大塚愛のHAPPYDAYSに、僕は驚いた。ルカから電話がかかってきたという事ではなく、スピーカーから流れる音楽の音量よりも随分と大きな携帯電話の着信音の音量に驚いたのだ。その音量が多分僕の平穏な日々を壊したのだ。それは紛れも無く、九ヶ月間かけてゆっくりと培っていた僕のテリトリーをぶち壊すミサイルに他ならなかった。
「あいよ」と僕は電話に出た。返事は無い。「もしもし?」返事は無い。「もしもーし」
「・・・来て」「ルカ?」「来て」電話が唐突に切れる。僕はツーツー癇に障る音を聞きながら固まる。ルカの様子がおかしい。念のために着信履歴を確認するが、やはり間違い電話などではなくルカからの着信だ。僕は梅酒を一口飲み、間接照明をオフにして、いつもの部屋の明かりをつける。急に明るくなる部屋に、僕はここが現実世界だという当たり前の感触に安心する。そして気を取り直して着信履歴からルカに電話をかける。何度コール音を鳴らしてもルカは電話に出ない。僕はルカの姉の命日を思い出そうとする。一緒に寝てと頼まれた日のことだ。僕は携帯電話で今日の日付を確認するが、それがルカの姉の命日なのかどうかの判断はつかなかった。もう忘れてしまっていた。
僕はユニクロのスウェットの上下を脱ぎ捨てるとジーンズを履き、Tシャツを頭から被り古着のパーカーをその上に羽織った。タクシーを呼び、到着するまでの間に水を一杯飲み、煙草を一本吸った。心はざわついていた。先ほどまで僕がいた平穏な世界から一歩外へ出たという実感が、どこからともなくやってきて僕を包み込んでいた。CDを止め、静寂に満ちた部屋を見回すが、当たり前ながら、やはりそこに変化はない。そしてタクシーが辿り着いたのを窓から確認すると、僕は部屋の鍵とタバコと携帯電話と財布をポケットに突っ込み、家を出た。
雨は想像以上に強くなっていた。アスファルトは濡れて街灯の明かりを反射している。僕は急いでタクシーに乗り込み、ルカの家の住所を運転手に告げる。