聖夜(その1)-3
サナトリウムに近いホテルの窓の外には、淡い黎明の中で雪化粧をした森と鏡面のように澄んだ
湖がひろがっていた。烈しく降っていた雪もすでにやんでいる。夜明け前のわずかな青い時間が、
K…氏の疲れたからだを優しく包み込んでくれる。閉じた瞼のうらに、ふと妻の麗子の白い裸体
に、絶え間なく降りかかる雪の冷たさと柔らかさを感じたような気がした。
サナトリウムで若い医院長に告げられた言葉が、耳鳴りのようにまだ響いていた。
「…検査の結果が出ました…」と、サナトリウムの医院長が、手元の書類を覗き込みながら、
どこか躊躇うようにK…氏に言った。
「…そうですか…やはり…」
K…氏が、この医院長に密かに頼んでおいた検査の結果は、彼が予想をしていたとおりだったと
は言え、妻に対するK…氏のどこか鬱屈とした戸惑いは、決して隠せるものではなかった。
医院長は、書類を閉じるとK…氏の方を振り向くことなく窓の外の雪に包まれた森をじっと見つ
めていた。
「…奥様を責めないでください…これは私のお願いです…」
妻の麗子が発病したのは、三年前だった。三十八歳の誕生日を迎えた頃から不眠が続き、鬱状態
が続いた。髪を振り乱し、マンションの部屋の壁に爪をたてる日々が続いた。妻は夢にうなされ、
何かに脅える日々が続いた。
K…氏はある会社の顧問をしていたが、仕事に追われ、妻の様子の変化に気がつくことさえなか
ったのだった。意味不明の妻の言動に、K…氏は不安を抱き、精神科の病院を妻に勧めたが、す
でに荒れた妻には逆効果だった。
徐々に妻の様子は異常で奇怪な言動に変化していった。あるとき、妻は下着姿のまま駅の構内を
徘徊しているところを警備員に保護されたこともあった。
またあるときは、妻は隠しもっていた鞭で全裸になった自らのからだを打ちそえていたこともあ
った。美しかった白い肌に赤い鞭の条痕が幾筋にも血を滲ませていた。妻の痛々しい自虐症状は
続き、虚ろな瞳をいつも脅えたように震わせていた。
K…氏は、すでに幼いひとり娘を叔母のところへ預けていたことを何よりもホッとしていた。こ
んな母親の姿を娘には決して見せることはできなかった。
なぜ…なにがあったのか…落ち着け…妻の肩をゆすり、K…氏は荒れる妻の頬を叩いた。妻のベ
ッドの枕元に散乱する睡眠薬と錠剤…妻が危険な状態にあったことは確かだった。精神科医に相
談し、安定剤を服用させた。しばらくしたら、妻は鬱の状態へと少しずつ変化していき、わずか
ながら正常な会話ができるようになったとき、K…氏は、このサナトリウムへの入院を妻に勧め
たのだった。
「麗子もこの場所だったら、落ち着いて暮らせそうだな…」
初めてこのサナトリウムを訪れたとき、麗子は最初、K…氏に脅えるように寄り添っていたが、
病室の窓の外に広がる樹木から木漏れ陽が、穏やかに差してくるこの部屋を気に入ったようだっ
た。
窓から遠くを見つめる妻の瞳の中に、なにか懐かしいものを感じているような気がしたのは、
K…氏の思い違いではなかったのだ。
麗子はサナトリウムに入院すると、治療と抗精神薬の服用によりやや安定してきたが、躁と鬱が
交互にあらわれながら、ときには烈しく嗚咽を伴うこともあった。