狼さんも気をつけて?-12
――ふふふ……あんまり遅いと催促しちゃうからね……。
最後に聞こえたのは、はきはきとした『いつも』の夢の声だった。
目が覚めた。枕元の時計は午前二時を指している。部屋を見渡すと、カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいた。
窓辺に立ち月を見上げると、やはり血が沸き起こり、歯茎が痒くなる。しかし、不思議と心は穏やかでいられた。
明は窓枠を掴むと、自らを放り出すように飛び出した。
月を背に受け、屋根伝いに街をかける。薄っすらと青白い月に照らされた街並みは思いのほか明るく、トレースされた影が、まるで躍っているように見える。
夜遅くに好きな子のもとへ行くなどと、不純異性交友もここに極まり。とはいえ、明のご先祖様らしき人物も、熱を上げた赤い頭巾の女の子に手段も時間も選ばなかったらしく、むしろ家系なのだと言い訳する。
赤い屋根が見えてきた。二人きりの時間の終りを告げる目印。いつもなら近づくにつれて歩が鈍くなるというのに、今は加速している。
(高校記録、更新できる? ま、満月限定でゴール地点に夢がいないと無理だけど……)
少女趣味のピンクのカーテンが夢の部屋の目印。風に煽られ、窓からヒラヒラはみ出しているのが誘っているようにも見える。
明は窓辺へと近寄ると、ひさしにぶら下がって中の様子を伺う。
夏に近いせいか無用心なことに窓は開いている。しかし、肝心の夢は不在。もっとも、在室中だとして、素直に入れてくれるかといえば疑問。そもそも真夜中に二階の窓からこんばんわなどと、通報されて然るべき。彼は自分の計画性の無さを罵りながらも、ひとまず靴を揃えて窓辺に置き、侵入を開始する。
クローゼット、机に本棚はどれもシンプルなデザインだが、ベッドやカーテンは可愛らしいウサギのプリントが散りばめられ、隅っこにはヌイグルミの集落が形成されていた。
明はふと枕元にあった犬のヌイグルミを拾い上げる。
「お前達はいいな、夢と一緒にいられて……」
無機質なヌイグルミにまで嫉妬する程に重症。しかし、その原因殿は今いずこ?
……ギシリと音がした。明は床にへばりつき、耳を付けて音を探る。
足音は一人分。徐々に近づいているところから部屋の主のものと推理。息を殺し、ドアの死角に身を潜める。
ガチャリとノブを捻る音がしてドアが開くと、携帯のきらびやかな光が室内を照らす。
「遅いなぁ……もしかしてまた怖気づいたとか? まったく、とんだ狼さんね」
(今時間に電話なんて、いったい誰からかかってくるのさ?)
夢は誰かからの着信を待っていた。ただそれだけなのに、明の胸に鈍い痛みが訪れる。
自らの不法侵入は棚にあげ、一人傷つく弱気な狼。想い人の隣を歩くのは見知らぬ誰かであって、その後ろを恨めしそうに見送るのは彼自身。タイムリミットは既に過ぎており、残されたのは一匹狼ならぬ、負け犬だけ……。
「もう、こっちか催促しちゃおっかしら! いつまで待たせるのーってさ……」
自室の隅での悲喜交々などつゆ知らず、夢はニヒヒと笑い携帯をいじる。すると突然、明のポケットが振動する。
「わ、わわ、なんだってこんなときに……!」
「んあ? だ、誰? 誰かいるの?」
携帯の着信バイブだと分ったが応答どころではない。ひとまずベッド脇に身を隠す明。夢は慎重になり、部屋の入り口で立ち止まり、きょろきょろと部屋を伺う。
雲が月を隠しているおかげで部屋は真っ暗闇。すぐに見つかる心配は無い。
(窓は開いたままだし、夢の気を逸らせば逃げられる!)
逃亡の算段がついたら速行動。持ったままの犬のヌイグルミを窓と逆方向に投げる。
「うわぁ、何? お化け? 幽霊なら、時期ハズレだってばぁ」
ペタリとしゃがみ込む夢を横目に、明は獣並みの俊足で窓辺に行く。
風が普段より強かったのかもしれない。雲が薄く、軽かったのかもしれない。月は済ました顔で明を見下ろし、何も言わず背中を押してくれた。