熱帯夜-8
「い、いらっしゃいませ!」
アヤカはここぞとばかりお客さんに駆けよった。
「カナ、あんたの思い通りにはさせないから」
こんなにはっきりと私の意志を示したのは初めてだ。
「…ッチ」
カナは小さく舌打ちをすると背を向けた。
そして
「いらっしゃいませぇっ。こんにちはぁ!」
お客さんに小走りで駆け寄った。
カナの笑顔には吐き気がする。
本当に今までここにいたカナと同一人物なのかと疑ってしまう。
『カナ』という仮面、いつか私が剥がしてやると思ったが、その日は意外と早くやってきた。
ゴーッという低い音が私たちの声を遮る。
自然と声が大きくなってしまう。
冷房がいくら効いていても、ドライヤーの温風が顔や手に当たる度にじわっと汗が溢れてくる。
窓から見える外の景色もギラギラと暑そうだ。
「美容師さんは涼しくていいですねー」
「いえ、そんなこと無いんですよ?もう既に汗気味ですし」
お客さんのカット中の会話も天気の話が多くなる。
「あら、そうなの?梅雨も明けて本格的に夏になったのねー。夜も蒸し暑いし、寝苦しくて」
「あはは、私もです。暑くて窓開けても湿った空気しか入ってこないし、外に出てもむあっとしてて、肌ベタベタだし」
「そうそう、分かるわー。熱帯夜って嫌よね、毎年」
「はい。でも、夏らしくもありますけどね。…ブロー、終わりましたよ。今からセットしますね!」
持っていたドライヤーを台の上に置いた。
うちでは客に付く時、手押しの台を持ってきて脇に置く。
その台にはドライヤーやコテ、トリートメントやワックスを収納していて、一番上にはハサミを置くようにしていた。
さて、このお客様にはどんなセットをしてあげようか、などと考えていると
「舞美さん、あたしにやらせてくれません?」
アヤカがこっそり耳打ちしてきた。
「あら、新人さん?」
「はい!アヤカです!宜しくお願いします」
「ふふふ、可愛くて元気な子が入ったのね」
なかなか好印象だ。これなら大丈夫かもしれない。
「伊田さんのセット、アヤカちゃんに任せても良いですか?」
「ええ、お願いしようかな」
私はアヤカと場所を入れ替わる。
自分の持ち場を離れる時はハサミは自分で持っていないといけないのだけど、隣に付いているし、セットには使わないし、使うとしても私が切ればいいだろう。
そう思っていたが、その時新たな客が来店した。
受付をしなければいけないのだが、誰も手が空いていないようだ。