【イムラヴァ:二部】三章:悪魔と狐-1
第三章 悪魔と狐
レナードは、教会の屋根の上から小粋なお辞儀をして見せた。これが初めてならば、執行官も警備の兵隊達も呆気にとられたことだろうが、そうではなかった。兵士達の間を、敵意が広がっていく――レナードの登場が初めてのことではないのは一目瞭然だった。
レナードは、アラスデア風に言えば「秋の夕日に染まる麦の穂色」の美しい毛。手足と耳は黒い毛で飾っていた。そう、生来の毛色にも「飾っていた」と言いたくなるほど、彼は全てが魅力的だった。自分には黒が似合うことを知っているのだろう。むき出しの手足以外の場所――下穿きからシャツ、チュニックや剣の鞘に至るまで、黒一色。彼は歯を見せてにやっと笑い。涼しい表情を崩さぬままの、あの審問官に視線を送った。
鐘の音すらかき消す群衆の歓声と野次は、レナードが焚刑台にひらりと着地した時、一気に高まった。待ち構えていた兵士たちと対峙して、細身の剣を優雅に抜く。あんなに頼りない剣で7人もの男達と戦うなんてできそうにないと思ったが、レナードは旨く使った。幅広の剣のような硬度はないが、よくしなる。剣先は相手を翻弄し、実に器用に急所を裂いていった。レナードは、不敵な笑みを口元に浮かべたまま、ちょこちょこと踊るように立ち回る。いつの間にか、彼は可哀想なスプリングお嬢さんを丸太から開放し、片手にしっかりと抱きかかえた。そして、事もあろうに、楽しげに踊りまで披露して見せた。
おちょくられた兵士はうなり声を上げて飛びかかったが、レナードに足下をすくわれ、顔面から突っ伏して倒れた。レナードは、スプリング嬢を放し、群衆の中にそっと押し出してやった。別れ際に手の甲にキスをして、背後から挑みかかってくる兵士の剣をひょいとかわす。勢いを殺された兵士は、重心のバランスを崩したところで、あらわになった首に剣の柄の重い一撃を食って倒れた。そして、3人、4人、5人……1人倒すごとに、敵の剣を奪って足下のぐるりに突き刺す。自分は、そうして作った輪から一歩も動かないまま、自分に向かってくる相手を、子供を相手にしているみたいに簡単にのしていくのだ。全く!目の覚めるような光景だった。加勢するという案さえ思いつかなかった。そもそも、加勢など必要なことがあるだろうか?これはレナードの幕なのだ。アランは夢中で歓声を上げ、野次を飛ばし、レナードの名を呼んだ。
やがて、相手にする兵士がいなくなった。息をのんで見守る群衆。ついに、金髪の審問官が焚刑台を上った。レナードがつくった剣の垣根。その外側まで来た彼は、自らの剣をすらりと抜いて、レナードの構える剣先とふれあうぎりぎりのところで止めた。当たりに漂う緊張感が、剣先が触れ合った時に始まる苛烈な戦いを予感させる。
「君の聖典は、最近流行の印刷機で刷ったものかな、ルイス隊長?」低く、なめらかな声色でレナードが言った。自分の声が一番魅力的に聞こえるしゃべり方を心得ているようだ。
「私の聖典は、ルイス家に代々伝わる由緒正しいものだ」ルイス隊長はにべもなく答えた。「何故そんなことを聞く?貴様のために祈るつもりは毛頭無いぞ」
「聖典を写本する奴が間違えたに違いない。貴様の聖典にはこう書かれているはずだ――汝の敵を燃やせ」群衆がどっと沸いた。笑いと怒りの声が半々だ。なんと奇妙な空間だろう。しかし、そこに熱狂があることは間違いなかった。レナードはなおも続ける。ルイスのこめかみがぴくりと動いた。「それとも、右の頬を打たれる前に燃やせ?上着を差し出せと言われる前に燃やせ?もしかしたら、君の大事な写本も、燃やしちまったんじゃないのか?」それでも、剣先はにらみ合いを続けたまま動かない。新手の兵隊が、ルナールの背後に迫る。ルナールは完全に囲まれてしまった。当初7人しか居なかった兵隊が、今は倍ほどになっている。逃げ道はない。それでも、ルナールはほほえんでいた。全てが自分の思ったとおりになると信じる男の、力強い笑みだ。