【イムラヴァ:二部】三章:悪魔と狐-9
「うわっ!」
体温がない。おまけに信じられないほど固かった。もしやこの数分間の間に死んで固まったのかと思っていると、背中に鋭いものがあたった。とたんに背筋が凍り付く。一難去ってまた一難と言う言葉を覚えておいて良かった。こういう状況を表すのに、実に最適な言葉だ。といっても、何の慰めにもならないが。背中に突きつけられた刃の冷たさに似た声が真後ろから聞こえた。爺さんもこいつに、いつの間にか殺されてしまったんだ!
「お前は何者だ?どうしてこんなものを持っている?」馬車が揺れるせいで、鋭い刃がつんつんと背中に刺さる。首の付け根がいたくなるくらいゆっくりと振り返ると、荷台に放り込んだ荷物が紐解かれ、中に入れておいた異端審問官のマントと上着が取り出されていた。肝心の脅迫者の姿は、反対側に首を回さないと見えない。
「それは、昨日ぶんどったんだ……審問官を襲って」
「何でそんなまねをした、坊や?」男の声には、かすかにおもしろがるような響きがあった。どこかで聞いたような声だと思ったが、そんなことを考えている暇はない。
「わ、わからないよ。レナードの大立ち回りを見て……すかっとした気分になりたかったんだ。審問官ほど頭に来る奴らはいないから……だろ?」頭で考える前に言葉がこぼれてゆく。もし後ろの男が別の審問官だったらどうするつもりだ?しかし、その男は笑った。そして、背中の鋭器は取り去られた。
「無茶なことをする奴だ」アランがほっとして振り返ると、そこにいたのは、紛れもない、レナードだった。「だが、そう言う類の馬鹿は嫌いじゃないぜ」
彼はアランが見ている前で、老人の頭をつかんで持ち上げると、芝居屋台の引き出しを開けてそこにしまった。手際よく頭を首から引っこ抜き、ネジを回して胸部の蓋を開けて、その中の空洞に折りたたんだ足をしまい込み……。
「それ、人形か!?」アランが驚いて声を上げると、彼は得意そうに笑った。
「シ、俺の自信作さ。もう何百回もこいつに命を助けてもらってる。名前はアブエロ」
「あんたが操ってたのか?じゃあ、声もあんたが出してるの?」
レナードは耳をぴくんと動かして、アブエロの代わりに手綱を取った。「俺には剣の他にもう一つ武器がある――この喉がね」
「あの屋台の中に入ってるのはチグナラだと、てっきり」
「まあな、あいつらの話し方を覚えるのはそんなに難しいことじゃないのさ。もっと苦労したのは、金持ちどもの気取ったアクセントだがね」彼は咳払いすると、
「働かざるもの食うべからずだ、諸君。懇意にしていただいている、セバスティアヌス様のある家庭教師が仰るには、ベラベラベラ――これは、俺が昔乗った船に乗り合わせた将校の台詞さ。長い船旅で、おまけに密航してたもんだからやることがなくてな。この胸糞悪い話し方を習得するのがたった一つの気晴らしだった」
アランは感じ入った様子でレナードを眺めた。時には賞賛を口にするよりも、その表情の方が、よっぽど多くを語ることがある。ことに、芸で身を立てるものにとって、観客の瞳の輝きは千金に値する。レナードはむずがゆそうに口をゆがめた。
「ありがとうを言うのを忘れてた」アランは言った。「私は、アラン……」一瞬、本当の名前を言おうか悩んだ。「アラン・ギャビン。本当にありがとう」
「礼には及ばんさ。お前さんだって、俺の追っ手を2人分削ってくれたんだから」そして、アランの格好をちらりと見て、つけくわえた。「まあ、次からはもっとましな嘘をつくんだな……どう見たってパン屋の奉公人には見えないぜ。そんな泥だらけの手でパンをこねてみろ」
アランは自分の手を見下ろした。皺という皺、隙間という隙間に泥が詰まっている。思わずアランは笑い出した。ようやく緊張から開放された彼女は、理由もなくこみ上げる笑いを抑えることが出来なかった。レナードもつられて笑う。2人は思うがまま笑った。森の中では、忍び笑いがせいぜいだったから、こんなに気持ちよく笑うと、心が洗われるような気分だ。