【イムラヴァ:二部】三章:悪魔と狐-7
「テネンナムから発ったばかりでして。これからユータルスに、薬を届けに参るんです」
「お前、薬屋か?」背後からもう一人が聞いた。とてもそうは見えないと言いたげだ。
「いいえ、薬屋じゃありません。テネンナムでパン屋の奉公人をやってるんですが、ユータルスに親戚があるもんでね。春の一ヶ月だけお休みをもらって、毎年あすこへいくんですよ。姪っ子がほしがる薬を持ってね」アランは背嚢に手を突っ込んでそこの方を漁った。何かめぼしい小道具が手に触れてくれますようにと必死に念じていた。すると――あった!作り話の才能があるな、と、自分で思った。
「これですよ、月の物が重い時に効くんで。奥さんにご所望ならおわけしますよ」アランは、一年前にもらった、しなびた薬草の入った革袋を見せた。
「そんなものはいらん、しまえ」青白い顔の男はどうでも良いと手を振った。そうだろうとも、あんたに女房が居るとは思えないもんな。
「聞きたいことがあってな」青白い男は言った。「このあたりで、狐の顔をした悪魔を見なかったか?」
「狐の?さあ……」なるほど、じゃあ、あの怪傑は旨く逃げおおせたわけだ。おまけに、2人の審問官を伸した自分の捜索にまでは手が回らないと見た。
「ああ、身体は人間、顔は狐の悪魔だ。テネンナムでも最近騒ぎがあったがな」
「さあ……見ませんねえ」
「貴様、ユータルスに親戚があると言ったな。その家の名前は?」背後の男がいきなり聞き、アランののんきな表情は凍り付いた。
「どうした、早く答えんか」青白い男が不安げにせっついた。嘘が露呈したことは、自分が一番よく分かっている。作り話をして、立ち入った質問で返されたら、まず望みはない。答えられずにいると、男は更に言った。声に若干の優越感が滲んでいる。
「私はユータルスの出だが、そんな家族が居るという話は聞かんぞ」
ユータルスから異端審問官が?アランは何故かそちらの方に強い失望を覚えた。事態を把握した青白い男が、思い出したように表情を引き締め、剣に手を掛けた。
「貴様、何者だ?」
万事休す、アランは手に持っていた背嚢を中身ごと背後の男に放り投げた。2頭の馬が驚いて竿立ちになる。アランは馬の足下をくぐって、一目散に掛けだした。
問題は偽名じゃない。アランは思った。作り話のうまさでもない、運だ。
「この!」審問官の悪態が聞こえる。次いで、小さな蹄の音と、嘶き。それから、馬の足音はどんどん大きくなる。いや、あれは足音じゃなくて、自分の心臓の音か?それならこんなに大きく聞こえるはずはない。アランは手足がちぎれてしまうかと思うほど精一杯走った。しんみりと朝の空気を楽しんでいたあの平穏な時間は消え去り、同じ匂いのする大気の中で、彼女は今、命を賭けて走っていた。鞭の音が聞こえる――馬2頭分の足音と、人2人分の罵声と、自分の息づかいが、ごちゃ混ぜになって聞こえてくる。視界が霞む――アランは目を閉じて、がむしゃらに走りまくった。
「あんれまあ」
全くその場にそぐわない、間の抜けた声がしたので、はっと顔を上げた。しかし、何かが目に飛び込んでくる前に、アランの顔面が硬いもの――壁か?そんな事はあり得ないが――に激突した。恐ろしげな蹄の音が、背後で多々良を踏んで止まった。くらくらする頭をどうにか押さえつけて見回すと、自分がぶつかったのは、テネンナムで見かけたあの人形劇の屋台だった。車輪の着いた移動式の屋台は今、馬に繋がれていた。「おんやまあ」の台詞の主はどうやら、馭者席に座っている背の曲がった老人らしい。振り向けば、今にもつかみかかってきそうな審問官が、馬を下りてこちらに向かってこようとしているところだった。