【イムラヴァ:一部】十章:傷ついた獣-1
第十章 傷ついた獣
初陣の朝は、いつもと同じようにやってきた。アランは、昨晩ほとんど眠っていないにもかかわらず、ちっとも眠気を感じなかった。卵は、部屋を出る前に布団や服で何重にも包んで木箱に隠した。運がよければ数日で帰れるだろう。そうすればもう間近と思われる孵化にも間に合うかも知れない。卵の殻越しにきく鼓動はどんどんはっきりしてきたし、窮屈そうに中で動く音も聞こえた。もしかしたら、討伐に出かけている最中に孵ってしまうかも知れない。そうしたら、雛は餓え死ぬか、鳴き声を聞きつけられて、始末されてしまう。そうならないことを祈るほかに、アランに出来ることはなかった。
コルデン城から出発する兵士は、騎士と歩兵を会わせて五十人を超えていた。すでに他の領地から出兵した兵士を合わせれば、討伐隊の数は百五十に届くかも知れない。もちろん、決まった主に忠誠を誓っていない者もいる。エレンとトルヘアの戦争に参加したのは騎士達だけではない。身を立てようと、または、報奨金目当てで、剣をとった農民も多い。戦争を生き延びた者達の中には、元の農民には戻らず、金で雇われて戦に参加する傭兵になったり、修道会に所属する修道騎士が沢山いた。あたりには、そう言った者達がごった返していた。それにしても、これほどの数をそろえる必要があったのだろうか。こんな田舎でここまで大規模な徴兵が行われるのは初めてのことだろう。それを言えば、これほど大勢の人間が森に入ること自体が初めてのことだ。
幼い頃には、国中至る所で噂されていた森の怪物も、最近はクリシュナという盗賊の活躍の陰に身を潜めてしまっている。アラン自身は、森の怪物というのは親が子供を森に近づかせないようにするための方便だと思っていた。しかし、トルヘアの王にとっては、今も夢に出てきては彼の眠りを妨げる脅威なのかも知れない。とにかく、一五〇人のも兵士が森を探し回って、逃げおおせることが出来る者が居るとは思えない。アランは、この間の夜にあった旅人の一団が、忠告に従ってずっと遠くに逃げていてくれたものと信じるほか無かった。森は広い。同じように、自分たちの行軍を鈍らせるほど深くて危険であれば、尚さら良い。
アランは庭に出る前に、自分の部屋で丹念にさらしを巻いていた。その上からゆったりした胴着を着れば、体型はほとんど隠れてしまう。股引きはぴっちりとしていて、丸みを帯び始めた体の線を露わにしてしまうが、足に鎧の腿当て、膝当て、脛当てで覆ってしまえば、誰だって立派な騎士に見える。たとえ鎧の中身が案山子だって、本物の騎士と見分けは付かない。まあ、案山子よりは使い物になるはずだ、とアランは自負していたが、この異様な雰囲気に飲まれて怖じ気づくまいとする気持ちも、どこかにはあった。
アランは、人でごった返した城の中庭に出て、手の空いている従者を捜した。鎧の装着は小姓が行うのだ。アランは、小姓を呼ぶ前にもう一度さらしの具合を確かめた。
軍装になったのは今回が初めてではないが、完全装備をするとなるとやはり負担は大きかった。腿まで届く鎖帷子を、上からかぶせられただけでかなりの重さになる。アランは、何も身につけないで歩く時の動きやすさを忘れようと目を閉じた。帷子を着終わったら、次はブリガンディーンである。カンバス地の裏地に、表は厚地の綾織綿布、ビロード、金糸やサテンで豪華な装飾がなされたこの短衣には、コルデン城の兵士であることを示す鶫の模様が刺繍されていた。法教のものも、さすがにこれは焼かなかったようだ。今回の討伐を見越してのことなのだろう。そう思うと、苦々しい思いがした。肘当てと籠手が付けば、もう準備は万端である。ふと庭の方を見る。庭中が軍支度を整える兵士達でごった返していたが、その奥で、礼拝堂で、教父が希望者に祝福を施していた。アランは、教会の人間や城の者から目立たないよう、兜をおろして、遠くからその様子を見ていた。