【イムラヴァ:一部】八章:クラナド-8
「知らないならいい。他を当たる」背を向けて立ち去ろうとした男に向かって慌てていった。
「ルウェレンなら知ってる。あいつに手紙?」男はうさんくさそうにアランを見た。どちらも、こんな夜中に、城の中で外套のフードを深くかぶって、どちらもおそらく武器を携帯している。お互いの目から見て、お互いが怪しく見える、滑稽な図だった。
少なくとも自分自身がこの城の住人だと言うことを知っているアランは、この男が嘘をついていることもわかった。アラン・ルウェレンの名前は、ユータルスを離れて知られていることはほとんど無い。しかも、貴人から手紙を受け取る身分でもない。アランは心の中で門番以下、城の警備に当たっていた男達を罵倒した。こんなに簡単に敵の侵入を許すとは、なんたる役立たず!
「そいつの部屋がどこか、わかるか?」
いや、まてよ。うまくいけば、この男をとらえることが出来る。男はアランよりもかなり背が高い。男の目がひたと、彼女の口元に据えられていた。鋭い目つきには、冷たい殺気がこもっている。この男、以前に人を殺したことがある。それに、これから人を殺すことに対しても、何の躊躇いもないだろう。そう思ったら、背骨を一本に繋いでいる糸が抜けたようになってしまった。
「そこをずっと行くと階段のある広間に出る。階段を上ったら、右へ曲がって、突き当たりの部屋さ」アランは、肋骨を殴るように打つ心臓を、上から抑えつけたい衝動と戦いながら言った。
「ありがとうよ、アラン」男は言い、アランの横を通り過ぎた。
「いいんだ」
しまったと思う前に、男がアランの首をつかみ、口に手を当てた。その弾みで、短剣を取り落としてしまった。大きな手は、アランの顔をすっぽりと覆えるほどだ。
「やっと見つけたぞ、ルウェレン!こざかしい芝居など打ちやがって!」男がアランの顔に自分の顔を近づけた。青い目の中にうつった自分の顔まで見える位置に。男は乱暴にフードをはぐと、その下の顔をまじまじと観察した。
「榛色の目と髪。村の奴に聞いたとおりだ。間違いない……貴様のせいで、俺たちは……」何のことだ、と聞くことが出来ないまま、アランはもごもごとうめいた。口を覆っている手を外そうと暴れたが、鳩尾に重い拳が入って、体中から力が抜けてしまった。
抵抗する術がない。アランの体中から冷や汗が吹き出た。
――あの時と同じ!
世界が回り始める。目の前が真っ暗になり、胃のそこから吐き気がこみ上げてくる。
――あの時と同じだ!
「こんなチビが……」アランの耳には、男の言葉など聞こえていなかった。嫌だ、思い出したくない。記憶の暗い海に沈めたはず。あの事は、何重にも鎖を巻いて、重しをつけて、海の底に葬り去ったはずだったのに。
「いや!いやだ、やめて!」
アランはそう告げるための空気を必死に集めようとしたが、うまくいかなかった。体が言うことを聞かない。彼女の五感は、今起こっていることを何一つ知覚していなかった。全ての感覚が、あの日のあの場所にひきずりこまれる。嫌だ!そこには行きたくない!瘡蓋が剥がされる。傷口から膿があふれ出す……。
不意に、まぶしい光が中庭に差し込んだ。朝が来たのだ。この時間にはとっくに鳴っているはずの暁鐘が聞こえない。いつもなら、曙光がさすと同時に、見張りが鐘を鳴らすはずなのに ――そういえば、この城に帰ってくる時にも誰にも見つからなかった。そうか、見つからなかったのではない。あの時すでに見張りは全員殺されていたのだ。そして、私も。恐怖に見開いた目を、男はのぞき込んだ。