【イムラヴァ:第一部】四章:気高き翼の音-5
「いつ、ここを発つのだね」体を離すと、ヴァーナムがぽつりと口にした。彼の上を過ぎていった、何年もの苦難の日々が、彼の肌に、声に、目に刻まれていた。これが老いなのだとわかった時、アランの心には大きな悲しみと愛情がわき起こった。どうして、今すぐにでもこの森を越えて外の世界へ飛んでいきたいなんて言えるだろう?
「今しばらく留まります。少なくとも、すっかり夏になるまでは。皆の顔や、声をしっかりと覚えてから発ちたいのです――何処を目指すとしても」
「そうか」老人は、ふと、目を窓の外へ向けた。「ならば、今は別れの言葉を口にすまい。部屋に戻って休むといい……アランよ」彼は顔を背けて言った。アランは領主の前で深く礼をすると、出口に向かった。ドアの取っ手に手をかけた時、ふと思いついて質問をした。
「あの、私をここに連れてきた男の名前をご存じでしょうか」
「聞いてどうするのだ?」領主の言葉は、どこか辛辣に聞こえた。アランは少したじろいだが、再び言った。
「それでも知りたいのです。私を、コルデンの者達に引き合わせてくれた方です」
主は、依然窓の外を見つめたままだ。
「アレクサンドロス・マクレイヴンと言う男だ」重々しく言った。
アランは、その場で再び頭を下げた。襲いかかろうとするいろいろな感情を、何とか遠ざけたまま。
「ありがとうございます、領主様」そして、彼女は広く静かな書斎を出た。
廊下に人の気配はなく、城で暮らす者達の寝息が聞こえてきそうなほどだった。しかし、アランに聞こえていたのは自分の心臓の音だけだった。目の前に並べられたのは、新たな選択肢。王道か、それとも、名前すらついていない自由な道か。滅んだ国の王の血か、家名に縛られない自由の身か。確信はあった。己の出自に対して考えない日はなかったし、この日が来ることを予期しても居た。だが、「もしかしたら自分は王の血をひいているのかもしれない」と思いながら暮らすのと、「自分は王の血をひいている」と知りながら暮らすのはわけが違う。アランの目に映る世界は、一瞬にして姿を変えたように思えた。いや、目に映るものは変わらない。しかし、その意味が変わったのだ。今日から、多くのことが変わってしまうだろう。アラン自身がそれを望もうと、望むまいと。
「アラノア・タリエシン・グワルフ」本当の名前を、心の中で口にしてみる。決して口に出してはならない呪文を教えられた気分だ。同時に、自分の女としての部分に名前がついた。王として生きるためには、自分の中の女と向き合わなければならない。その苦難を思った。
王道には茨が生えている。
でも、領主様も言ったじゃないか、エレンはもう無いのだ。そう思うと、心は当然、夢に描いた自由な生活に引き寄せられる。
そう、自分は自由なのだ。かねてから抱いていた、外の世界へのぼんやりとした憧れが、今は心の中で燃えさかっているように思えた。広大な海原、何処までも続く道、賑やかな街、色んな国の人たち……想像の翼をたたむのは無理だ。今夜は。今から眠るなんてとんでもない。休むなんて出来そうにない。アランは軽やかな足取りで、部屋へと続く廊下を歩いていった。
書斎の扉の陰に、衝撃に立ちすくむウィリアムをのこしたまま。
ヴァーナムは、開けはなった窓辺に立っていた。老いの陰も、憂いの瞳も、領主の威厳を損ないはしない。彼は、音のない夜の世界を、挑むように見つめた。木々も、鳥たちも、風も、すべてが息を詰めて待っていた。静寂を破る、気高き翼の音を。