【イムラヴァ:第一部】四章:気高き翼の音-2
窓の向こうは真っ暗な闇。夜の闇が彼女をおびえさせることはなかった。夜は、おぼろげな記憶に通じる鍵だ。
夜のように真っ暗な瞳。そこに浮かぶ星のような輝きを、アランは今も覚えていた。引き出しにしまい込んだ宝物を、時々取り出して眺めるように、その記憶を大切にしていた。
風の囂々という音、子守歌を歌う低い声。凍えるような寒さと、体の温かさ。それが、名前も知らない「あの人」に関するアランの記憶のすべてだ。首からかかったお守りの石を握ると、石はいつものように温かく、アランに安心感を与えた。黒と、喩えようのない色をした青と金の筋が、棚引く雲のように石の中を流れ、何とも言えない不思議な雰囲気を湛えている。暗い空を飛ぶ金色の鳥の軌跡を見ているようだ。これを自分に授けてくれたのも彼なのだ。名前も知らない、彼女の守護者。
彼ならば、幼い頃のアランを知っているはずだった。自分が忘れてしまった小さな頃の記憶を、今も大事に持っていてくれているだろう。多分、再び会えたなら、とても喜んでくれるだろう。もしかしたら、いつか迎えに来てくれるかもしれない。それとも、二人で旅に出かけたりするかもしれない。おぼろげな記憶の中、この城に来る前のほんの短い間、かつて二人でそうしたように。
アランは小さな頃から、幾度となく「あの人」の出てくる物語を作り出しては忘れ、また作り出しては忘れていった。それはすべて、この城を出て、どこか別の場所へ行くことにまつわる物語だった。きっと、あの人が私を本来いるべき場所に連れて行ってくれる。そういう漠然とした夢を、ずっと抱き続けてきたのだ。しかし、『多分』は依然として『多分』のまま。記憶の中の彼が、現実に現れることはなかった。いつしか、小さな子供が一人編んだ物語は消え、苦い失望と、現実を受け入れた心の痛みが残った。
――多分、あの人ともう会うことはないのだろう。
窓の外に再び目をやる。朝日が昇る気配すらない。こんな時間に話とは、いったい何なのだろう?アランは訝りながら部屋を出た。
それから少し後、ウィリアムはアランの部屋のドアをノックした。ウィリアムの部屋も同じ西向きの塔にあるが、彼の部屋はアランよりも高い所にあった。窓を開けて覗いてみれば、明かりがついているかどうか位は見る事が出来る。妙な物音がしたので起きて外を見てみると、彼の部屋の窓の当たりに、妙な陰が見えたような気がしたのだ。それは巨大で、窓に張り付く蛹のようでもあり、今にもそこから蝶が出てこようとしているような、羽根の陰らしきものまで見えた。ウィリー坊やは恐がりだ、と、からかわれるのを承知で部屋に駆けつけたのだが、ノックに答えて出てきたのは召使いの老女だった。
「何かご用ですか、お坊ちゃま」彼女は心配そうにウィリアムを見上げた。よほど思い詰めた顔をしていたのだろう。おまけに、まだ外は暗い。いつもならアランも彼自身も眠っている時間だ。
「アガサ婆!アランは居ないの?」
「アラン坊ちゃまなら書斎にいらっしゃるでしょう。つい先ほどわたくしが領主様に仰せつかって、来るようにとお伝えいたしましたので」
「こんな時間に?」ウィリアムは困惑した。
「また、どなたかに悪戯をなさったんじゃないですか」アガサはさらりと答えた。その可能性は大いにあるが……ウィリアムは、とりあえず礼を言ってその場を後にした。父上がアランに話?それも、まだ誰も起きていないようなこんな早朝に。
アランの頭はすっかりさえていた。領主であるヴァーナム・マクスラスと対峙する時はいつもそうだ。それは緊張するからというだけではない。ヴァーナムは、一言発するだけで広間に集まった何百人もの聴衆の耳を独り占めすることが出来る。彼の声は変化に満ち、表情豊かで、誠実だった。彼もまた鶫の子であり、彼の声そのものが天与の才なのだ。
「早い時間に起こして悪かった」領主は優しげにいうと、いすを勧めた。
「とんでもありません。領主様」丁寧に答えて礼をすると、アランは顔を上げるよりも先に目だけで領主の姿を伺った。彼は机の上に肘をのせ、組んだ両手の上に顎をのせていた。部屋は暖かかったが、窓の外に広がる薄暗い森は、黒と灰という死の色に沈んで、いかにも寒々しい。彼はしばらく思慮深げな目でアランを見つめ、何のお叱りを受けるのかと怯える彼女の心胆をますます寒からしめた。やがて決心したように目を閉じると、ヴァーナムは語り始めた。