短編集-5
「優しいノックで泣いてしまう」
始まりはいつの事だったのか分からない。ただただ思っていたのは、ドアをノックされる事は、心をノックされているようだ、という事だ。
私が大学に行かず、一人暮らしのアパートに引きこもり始めて、早三ヶ月。起きて、ご飯を食べて、テレビを見て、パソコンを立ち上げて、一通りのホームページを見て回れば、もう日が暮れている。ある種の人々、例えば、発展途上国の人々から見れば、私は大層のんきに見えるだろう。
コンコン。
今日も彼が来た。開けろ、でもなく、頼むから出て来てくれ、という音でもない。その音の種類は誰が聞いても「優しい音」だと言うだろう。心地よく、聞く人を安心させる音だ。
「元気かい?」と彼はドアの前で言う。「大丈夫? 風邪とかひいてない?」とドアの前で、彼は言う。
私は何も答えない。彼はもう一度ドアをノックする。「じゃあ、帰るね」という合図だ。
私が大学に来なくなって心配した彼は、こうして毎日私の部屋まで来てくれている。コンコンと、私は返事をノックで返す。
コンコンと、コンコン。
音は同じのはずなのに、彼のノックと私のノックでは、どうしてこうも違うのだろう。
彼のノックの音は優しい。私の心の深く、柔らかい部分に響く。なのに、私のノックの音は、どこか空虚で、寂しい。
彼が帰った後、私はいつも泣いてしまう。彼が私の耳に残したノックの音が、涙となって形に現れるのだ。泣きながら、私はドアをノックする。その音はやはり空虚だ。私は気付いている。私は今、きっと自分の心をノックしているのだ。だからこんな音がする。
のんきと見える人々も、心の底を叩いてみれば、どこか悲しい音がする。