A silent drizzle-3
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耳が聞こえないということがどういうことなのか、彩希と出会うまで考えたことなどなかった。
音の一切を失った人生がどれほど辛く大変か、どれほど怖いかなんて想像したこともない。それなのに、聴力を失うくらいなら別にどうってことないなどと、ぼくは臆面もなく思っていた。
彩希は車を運転することができない。
聴覚障害者は運転免許証を持つことができない。クラクションやサイレンが聞こえないからだ。彩希は補聴器を使うことで、ものすごく大きな音なら辛うじて聞き取ることはできるけれど、しかしそれだけでは安全運転は望めない。
大学でも、彩希は決められた授業しか受講を許されていない。彼女に配慮した授業ができる教員が少ないからだ。
映画を観ることも、音楽を楽しむことも彩希にはできない。ほとんどのテレビ番組も見られない。電話も使えない。人と話すことすら紙とペンがなければできない。
──できないことより、できることを数えたほうが早いね。
いつだったか、ふとした拍子に彩希がぼくに示した言葉だ。
ぼくは、彩希の笑顔が好きだった。
なにかの拍子にクスリと零れる笑みや、楽しそうに咲かせる満面の笑顔、ふとしたときに見せるどこか哀しげな微笑みすら、美しかった。
聾者の彼女といっしょにいることが大変じゃなかったといえば、それは嘘になる。はじめは会話すらままならなくて、手話をなんとか覚えるまでは、ずっと筆談をしていたのだ。
遊びに行くことも、ぼくらはほとんどしなかった。彼女は街を歩くのも一苦労で、だからいつもお互いの部屋にいた。
それでもぼくらは、少なくともぼくは楽しかった。
なにを話すでもなく二人で部屋にいて、ぼくはレポートに四苦八苦したりして、そんなぼくを眺めながら彼女はのんびりと文庫本なんかを読んだりして。そんななんでもない空間の中に、幸せというものはあったように思う。彩希とベッドを共にするようになってからは、それはさらに濃く甘くなった。
──私のどこが好き?
そんな恋愛漫画の定型文のような言葉を、ある日彩希は手話にした。彼女のそれは、幾分ニュアンスは違ったが。
ぼくは少し考えて、そしてだんだんと覚えてきた手話で示す。
──笑顔。
ぼくのその答えはどうやら言葉が足りなかったらしく、彩希は訝しげに口をすぼめた。
──なんで?
──きれいだから。
──きれい?
──うん。すごくきれい。
ぼくは拙い手話でなんとかそんなことを返す。彩希はなにが可笑しかったのか、クスッと笑った。
でも、多分ほとんど伝わってはいないだろう。ふとしたときに咲く笑顔の花、太陽のように暖かいその輝きを、ぼくがどれほど愛おしく思っていたかを。