A silent drizzle-2
「耳が聞こえないの?」
そう声に出して、それが無意味だとすぐに気づいた。
鞄から大学ノートを取り出して、そこに書き込む。
『耳が聞こえないんですか?』
それを見て、彼女はコクンと小さく頷いた。
途端に、ぼくはみっともなく狼狽してしまった。身体障害を持った人と関わることなんて、これまでになかったから。
『なにか困っている?』
またコクンと頷いた。
彼女がなにか言いたそうにしていることに気づいて、慌ててノートとシャープペンシルを渡す。
『補聴器を落とした』
小さな丸っこい字で、彼女はぼくの字の下にそう書き入れた。
いっしょに探すよ、と言葉にする代わりに、ぼくは彼女と同じ姿勢をとった。困惑した表情を彼女は見せたが、構わずぼくは地面を探す。
はたして補聴器は、すぐに見つかった。
道の端のベンチの下に転がっていた。少し離れた死角になったところにあったので、気がつかなかったのだろう。
「あったよ」
顔の前に出してあげると、ぱっと花のような笑顔が咲いた。慌ててそれを受け取って、大事そうに手のひらで包んでいた。
彼女はペンをとって、ノートに言葉を書いてぼくに見せた。
『ありがとうございます』
広げたノートと、その向こうの彼女の笑顔は、本当に綺麗だった。多分、ぼくが恋に落ちたのは、このときだ。
「じゃ、じゃあ」
どうせならメールアドレスや、せめて名前くらい聞いておけばよかったと何度も思った。でも、パニックになってしまったぼくは、そう言って歩き去るのが精一杯だったのだ。
「あう……」
しかしそのとき、彼女がぼくを呼び止めた。正しい発声も発音も出来ない、不格好な声で。
「あ……あい、あお……」
そう言って、彼女はにっこりと微笑んだ。
──ありがとう。
一文字しか合わない彼女の言葉は、それでもしっかりとぼくに伝わった。
そうしてぼくは、もうどうしようもなく彼女のことが好きになっていた。
それから半年後、ぼくたちは恋人になった。告白をしたのはぼくだ。
──私でいいの?
渡した手紙を読むなり、彼女は手話でそう尋ねた。
──君がいい。好きだから。
覚えたばかりの手話でそう返す。
もっと使いこなせれば気障な台詞も使えたのだけれど、独学で基礎をかじったくらいではそれが精一杯だった。
彩希は俯いたままなにも示さない。不安になってぼくは手話を続ける。
──だめかな。
すると彩希は、小さく首を横に振った。そして両手を動かす。
──大変だよ?
──そんなことない。
──私でいいの?
さっきと同じ手話を彩希はした。
そしてぼくも、同じ動きをする。
──君がいい。
親指と人差し指を開き、ピストルのような形にした右手をあごの下に当てる。そしてその指を閉じながら、手を胸元の辺りまで下げる。
いつか伝えようと、真っ先に覚えた手話。
──好きだから。