海螢(久美子の場合)-2
…ちょっと、そこの眼鏡のおねえさん、時間がないから早くしてくれる…
毎日のように客から言われる言葉が脳裏に浮かんでくると、思わず苦笑する。
眼鏡をかけはじめたのは、あのことがあった高校生のときからだ。あれ以来、なぜか眼鏡をはず
すことが怖くなった。それに、自分の心の中をのぞかれることを拒否するように早口で喋る癖も、
あのときから変わってはいない。
あのとき…久美子の心の中に刻まれた傷は、ずっと痺れたように心の粘膜に膿み続けている。
部屋の壁にかけてある、額に入ったウミホタルの写真をいつものように眺める。たまたま立ち寄
った画廊で買ったお気に入りの写真だった。
静寂だけが充ちた暗い海の中で、ウミホタルが青白い幻想的な光を放っている。見つめれば見つ
めるほど、なにか自分のなかの寂しさをその光は優しく吸い込んでくれる。
散りばめられた淡い明かりを放つウミホタルの写真を、いつからこんな風に眺めるようになった
のだろうか…。
バスルームのお湯の蛇口を止める。脱衣室で下着を脱ぐ。ここのマンションに住んでから何年に
なるかしら…。この脱衣室の大きな鏡が気に入っていた。この鏡があったからこの部屋を借りる
ことに決めたことを思い出す。
それは全身を映すことができる大きな縦長の鏡だった。
わずかに弛みをもちはじめた乳房は、華奢な体にはどこか不似合いな大きさをもっていた。
昔から透きとおるような雪白の肌が気に入っていた。でも最近は若い頃とは違った脂肪が、細身
の体を薄く包みこみ始めている。
肌がどこか寂しさと脆さを含み、熟れだした果実のような甘さが、体全体に漂ってきたような気
がする。体重も若い頃からずっと変わらないけど、いつのまにか括れた腰と下腹部にゆったりと
したふくよかな線が描かれていた。
そして性器を覆う陰毛だけが、なぜかいやらしくその濃さを増している。あのことがあって以来
男性の性器を受け入れたことのない陰部だけがひとり歩きを始め、自分に対して恨めしそうに
咽び泣いているのを心のどこかで感じていた。