長い夜 3-9
遼子も腕を佐伯の背中に回した。佐伯の匂いがする。すき焼きの匂いもするが、微かに、確かに、佐伯のいい匂いがした。逞しい大きな胸に顔をうずめて目を閉じた。一呼吸ごとに神経のもつれがほどけていくようだ。チーフという立場の責任も、新人を育てる側になるベテランと呼ばれるプレッシャーも、世代交代の不安な危機感も、ほぐれていく。
一分、二分、時なんて忘れさせて。だけど、佐伯も遼子を引き離そうとはしない、声もかけない。遼子の気が済むまで付き合うつもりでいてくれているのかと遼子は佐伯の優しさにもっと甘えていたかった。
「佐伯さん」
遼子は顔を胸にうずめたまま佐伯に言った。
「ん?」
「頭、撫ぜてください」
「・・こうか?」
佐伯は、書類を持たない方の手で、静かに遼子の髪を撫ぜた。
「僕のこと、父親だと思ってない?」
佐伯はふざけるように遼子を覗き込みながら言った。
「初めて佐伯さんに助けられた日、ここで佐伯さんによく頑張ったって頭を撫ぜてもらったんです。すごく嬉しかったんです」
「そうか・・」 佐伯はほんの少し強く遼子の頭に手を置くと、優しく撫ぜた。
「佐伯さん」遼子は微動だにせずしがみついている。
「なに」
「地雷ふんでいいですか」
遼子は佐伯から離れずに聞いた。
「地雷? なにそれ」
「写真、見たんです。佐伯さんの部屋で」
佐伯は黙っていた。黙ったまま、遼子の髪を撫ぜていた。
「奥さん、ですか?」
佐伯の手が一瞬止まったように感じた。遼子の気のせいかもしれない。
「そうだよ」
寂しそうな声で答える佐伯から身を離して遼子は佐伯の目を見た。
微笑んだ表情も寂しそうに見えた。やはり聞くべきではなかったのかと遼子は少し後悔した。
佐伯は遼子の頭にポンと手のひらをのせてクシャっと撫ぜてから
「帰るか」
と言って、ドアのほうへ歩き出した。
遼子もあとについて事務所をでた。
タクシーを拾うと佐伯は遼子だけに乗るようにと勧めた。遼子はドアの横に立ち止まった。
「今日はご馳走様でした」遼子は丁寧に頭を下げた。
「身体を無理せずに、仕事がんばってね」佐伯は微笑んだ。いつもの優しい瞳に戻っていた。
「佐伯さん、また会ってもらえますか?」
佐伯はしばらく時間をおいて
「連絡するよ」と言った。
遼子は車に乗り込み、手を振って佐伯が見えなくなるまで目で追った。
佐伯もまた、遼子の車が見えなくなるまで見送った。