多分、救いのない話。-9--5
『――――』
ピアノの音。
この異常な場面で、あまりにも場違いな癒やしの旋律。
「あらあら」
怪物は――神栖の母親は、今までの葉月とのやりとりをまるで無視して、自分の鞄からケータイを取り出す。
いつかも聴いたことのある音色、そしてクラシックに疎い葉月でも知ってる曲。
J・S・バッハ作曲、『心と口と行いと生活で』第一部第六曲及び第二部第十曲より、コラール『Jesus bleibet meine Freude』
――主よ、人の望みの喜びを――
「ええ、私の方は何も心配ないわ。慈愛は?――」
葉月を無視した母親は、娘の声を聴いた母は、本当に母親らしい慈愛〈じあい〉に満ち満ちた笑顔で。
声を聴くだけで、こんなに嬉しそうに。優しい笑顔を浮かべて。
何がなんだか分からない。あまりの豹変振りに、むしろ先程よりずっと怖気が走る。
『――知ってますか?』
《ここ》に来て、半狂乱に陥っていた葉月に、神栖慈愛は自分のケータイを取り出し、この曲を聴かせてくれた。
『これ、元々は十曲から成る教会カンタータの一部なんです』
第六曲《イエスを有する我が喜び》
第十曲《イエスは変わらざる我が喜び》
歌詞は違えど旋律は同じ、日本で有名なこの、《主よ、人の望みの喜びを》なのだと言う。
『慈愛が一番落ち着く曲なのです』
確かに、神に捧げる曲なだけはあって、ただただ綺麗で――それ以外の余分なものが一切ない。
まるで、この母娘をそのまま表しているかのような。
完全で、十全。
音楽の趣味にどうこう言うつもりはない。むしろ上品な部類になり、ケータイの着うたに設定していてもなんでもない曲だ。
だけど。
この、違和感は、気持ちの悪さはなんなのだろうか。
この曲を“唯一の相手専用の曲として設定している”、その意味は。
まるで、完結された狭い世界。
葉月が家庭訪問――もう何年も前に思える――した時に感じたあの、落ち着かなくさせる居心地の悪さを、この曲に。
二人だけの世界を望むこの母娘に、強く感じた。
「あら、こっちに来るの? ええ、クリームシチューよ。慈愛、好きでしょう? ええ、ええ、……ならパンの方がいいわね。お願い出来る?」
それから一旦別れの言葉を告げて、母親はケータイを切った。
奪って外部に連絡なんて、もう出来ない。この母娘に、この母親から、何かを奪う?
そんなこと、あの《怪物》が許すわけがない。有り得ない。
「先生」
目の前の存在に呼ばれた時も、先程の凶気は一切消えていたのに。もう動けなかった。
「シチューはね、ちょっと甘めの方が慈愛は好きなの。先生は胡椒を少し効かせた方がいいかしら?」
「……いい、何でも」
辛うじて、それだけ言葉を返す。
母親は、怪物は。シチューを味見に、先程まであれほどの凶気を向かわせた葉月をまるで意に介さず、台所に向かう。
あまりに呆気なくいなくなった後には、ほどけた白い包帯だけが残った。
置いてきぼりにされた、傷を守る為の包帯は、守る対象がなくなって、どこか寂しそうに見える。