改:愛・地獄変 〜地獄への招待〜-3
(梅村正夫)
私は、名前を梅村正夫と申します。
明治の終わりに、石川県の田舎でこの世に生を受けました。そして十を少し過ぎた時にに上京しまして、和菓子店でお世話になりました。当時は住み込みの関係で、朝は午前四時から夜は午後九時頃まで働いておりました。二十年間辛抱したら
「暖簾分けをしてやる」と言う、ご主人様のありがたいお言葉を信じて一生懸命働きました。
私が言いますのもおこごましいのでございますが、こまねずみのように働きましてございます。ですので、当初は“チューちゃん”と呼ばれておりました。私としては有り難くない呼称でございますが、御主人様の私に対する愛情だと受け止めております。が、その呼称も僅か一年のことでございました。お目出度いことに、御主人様にお子様がお生まれになったのでございます。夫婦になられましてから十有余年が過ぎておられます、もうお諦めになられていたとか。
ですのでご誕生の折三日の間、和菓子の大廉売を図られました。ご近所は言うに及ばず、他県からもどっとお客様がお見えになりまして、大騒ぎでございました。ハハ、失礼致しました。他県からと言うのは、ちと大袈裟でございますな。しかしお見えになられたのは確かなのでございます。ご近所の大木様が、ご縁者にお声をお掛けになられたからでございましたが。
「お前は、コウノトリじゃ。いや、ありがたいありかだい。」と、過分なお褒めを頂きました。そして特別に一日のお休みを頂けました、更にはお小遣いまでも。とは申しましても、右も左も分からぬ土地でございます。どうしたものかと思案の挙句、まだお嬢様にお目にかかっていない私でしたので、奥様のご実家に行かせて頂きました。
奥様に抱かれた赤子、それはそれはお美しいお嬢様でございます。名を、小夜子とお付けになられました。そよ風の気持ち良い夜にお生まれになられたからとのございます。心地よい響きのお名前でございます。ひと月ほどをご実家で過ごされましてから、お戻りになられました。御主人様のお喜びようは、それはもう、でございます。夜の明ける前からお起きになられて、私の仕事であるお掃除を始められました。
寝坊をしてしまったのかと慌てましたですが、
「わたしが勝手にしたことだから。」と、言ってくださいました。で、手分けして家中の大掃除でございます。年の終わりの大掃除以上に、あちこちを雑巾がけ致しましたです、はい。
そして約束の二十年目に、ご主人様の勧めで店を開くことになりました。いわゆる、のれん分けでございます。勿論、ご主人様のご援助のもとでございます。その一年後には、大東亜戦争の勃発で赤紙が届き、すぐにも入隊の運びとなってしまいました。しかし、何が幸いするのでしょうか。和菓子の製造で体を蝕まれていた私はー兵役検査でわかるという皮肉さでしたー、外地に赴くことなく内地で終戦を迎えたのでございます。
しかも幸運にも私の店は戦災を免れまして、細々ながら和菓子づくりを再開したのでございます。そしてその後、妻を娶りました。そうそう、言い忘れておりましたが、ご主人様は東京空襲の折にお亡くなりになっていました。奥様も又、後を追われるように亡くなられたとのことです。
私の妻と申しますのが、そのご主人様の忘れ形見なのでございます。毎日々々、私の店の前で泣いておられたのでございます。御年、十九歳でございました。それは心細かったことでございましょう。ご親戚筋が、長野県におみえになるのでございますが、疎開されることなくご両親と共だったそうでございます。
なぜ疎開されなかったのか・・、私目がそのようなことを知る由もございません。えぇ、えぇそうですとも、分かりませんです・・。そのようなお疑いの視線を・・向けないでくださいな。・・・分かりました、どうせ分かることでございましょうから。ふん、お慕いされておられる殿方のせいでございましょう。もっとも、今どうなさっていることやら。