ヒミツの伝説-10
放課後、野球部の練習は、試合本番に向けてますます熱気を帯びていた。
「すげえ、場外ホームランだぜ」
弘志のバッティング練習を見ていた朱川がそう言った。投げているのはエースの松原である。
「松原、結構真剣に投げてるのに、完全に打ち込まれてるよ!」
他の部員たちも手を止めて、弘志の方を見る。
「なんか、弘志、気合いの入り方が違うと思わないか?ギラギラして、近づきがたいというか…」
「ああ、目なんか血走っているぜ」
部員たちは、そう噂し合った。その迫力の真の理由を彼らは知らない。
「お疲れっ!」
練習が終わり、美穂が部員たちにタオルと飲み物を渡していく。
「はい、向阪君」
「サンキュー…」
いつものように気軽にそう言って、伸ばした弘志の手に美穂の手が触れる。慌てて引っ込めようとした手を、美穂がギュッと握り締めた。
「握手!」
そう言ってニッコリ笑う美穂のコケティッシュで可愛らしい顔に、弘志はどぎまぎしてしまった。握った手が暖かく、柔らかい。
やがて、他の部員たちが一足先に帰り、弘志は宮内と奈月が来るのを待っていた。いつもは他の部員と一緒に帰る美穂が、今日はなかなか帰ろうとせず、部室の片付けなどをしている。
「佐々木、帰らないのか?」
弘志が声をかけた。奈月たちが来るまでに、美穂には帰ってもらわなければならない。例の「特訓」を人前で行うことなど、できるはずもなかった。チラチラと時計を見ながら、美穂の姿を視線で追い、弘志は気が気ではなかった。
「ねえ、向坂君…」
美穂が急に弘志の方を振り返った。決意を秘めた表情で彼の目を見ると、はにかむような笑みを浮かべて言った。
「私、向阪君のこと、好き…」
今朝、電車で気まずい雰囲気の弘志と奈月を見た美穂は、思い切って弘志にアタックすることにしたのだ。
「佐々木…」
少し頬を染めながらも、ひるむことなく、積極的にアプローチしてくる美穂に、弘志の方が戸惑いを見せる。ふいに甘いリンスの香りがして、美穂がギュッと抱きついてきた。
「えっ…?」
突然の出来事にポカンと半開きになった弘志の唇に、美穂が唇を重ねた。弘志の手が、意識しないまま美穂の背中に回る。
美穂の胸の膨らみが、弘志の胸に押し当てられている。弘志は、股間が膨らんでしまうのを感じた。
その時、部室のドアが開いた。そこには「特訓」のためにやってきた奈月が立っていた。
(う、うそっ?)
目の前で抱き合う二人を見て、美奈は目を見張った。それは間違えようもなく、弘志とマネージャーの美穂だ。
(どうして?なぜ、二人が…)
あまりのことに奈月は愕然としてしまい、その場に立ち尽くしていた。いろんな思いが一瞬のうちに奈月の頭を駆け巡る。
「あ、笹野さん…」
「えっ!」
美穂が奈月の姿に気づき、声をあげた。それを聞いて、弘志も奈月に視線を合わせる。
「………」
奈月は目に涙を浮かべ、怒りの表情で無言のまま、じっとこちらを見ている。
「な、奈月、ち、違うんだ。誤解するなよ、これは…」
弘志は、慌てて言い訳をしようとしている。
「言い訳なんか、しないで!」
叫んだ奈月の右手が、弘志の頬をしたたかに打った。肉をはじく乾いた音が部室の空気を切り裂いた。
「奈月っ!」
追いかけようとして掴んだ手を激しく振り払われて、弘志はその場に呆然と立ちすくんだ。
「ひどい!ひどすぎるわ!」
奈月は、学校から駅への坂道を駆け降りていく。知らず知らずのうちに頬には、熱い涙が伝っている。どうしようもなくこみ上げてくる慟哭と、全速力で走ることからくる激しい動悸とでかなり呼吸が苦しい。
それでも、一刻も早く学校から遠ざかりたかった奈月は、おかまいなしで走り続ける。