そこに海はなかった-1
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あの場所は、どうなっているのだろう。どうかあの頃のままであって欲しい。遠い記憶を確かめたくて、高志は深夜に車を走らせた。
海浜公園に近いインターチェンジで高速を降り、国道に沿って西へと向かった。
ヘッドライトに浮かび上がる景色に注意しながらハンドルを握る。運転席側の窓を少し開けると、頬を刺すような冷たい風と一緒に、ほんの少しだけ潮の匂いがした。
道路の継目がタイヤを叩く振動と、窓から流れ込む風の音とが一定のリズムのように聞こえる。ゆるやかな右カーブを過ぎたらしばらく行くとその場所は、あるはずだった---。
「確か、この辺りだったかな」
路肩に車を停め、記憶を辿る。ハザードランプの点滅音が辿る記憶を鮮明にしてゆく。
ときおり大型トラックが高志の車をかすめる。ルームミラーにヘッドライトが反射すると、忙しく車を左右に揺すり過ぎてゆく。
何台目かのトラックが行過ぎ、目線を助手席側の窓にやる。暗闇に慣れた目は、海峡のある方向といい、運転席側からは見覚えのある山のなだらかな稜線が、その場所の近くであることを確信させた。
海岸に面したテラスのあるカフェ。
(間違いない。この先だ)
だけど。
暗闇の中には、記憶にない灯りが浮かんでいる。
(変わってしまったのか。もう、無いのか)
「やっぱり、そうか」と、いう思いに押しつぶされそうになりながら、灯りへと車を出す。
高志は、どこかで、覚悟していたのかも知れない。けれど、気付かなかった。気付いてやれなかった。変わってゆく、変わってしまう、そのままで変わらずに留まれない。と、いうことを。
わずか走っただけなのに、その灯りが何なのかはすぐに分かった。
かつてのその場所は、コンビニとファミリーレストランにさま変わりしていた。
駐車場に車を着ける。ハンドルを握る両手になぜか力が入る。
車を止めてからも両手でハンドルを握ったまま、高志はフロントガラス越しに遠くなった海岸をすぐ近くに引き寄せるように眺めた。
わずかな振動を伴ったエンジン音にひどく錆びた想いがした。エンジンを止め外に出てみると、冷えた空気がとめどなく押し寄せる虚しさを凍らせる。
そこには潮の匂いもテトラポットに打寄せる波の音も無かった。
海岸の白いテラスで微笑む優希。いたずらな潮風が彼女のしなやかな髪を乱す。
いつも高志の位置からは優希の背に、海峡を行き来するフェリーや漁船が遠くに小さく見えていた。学生だった頃、この場所によく来たな。と、過ぎ去った時を振り返る。
海岸に面したテラスのあるカフェ。
就職活動の真っただ中だったなと。大きな夢と希望に満ち溢れていた。
そして---、優希と俺、オレは優希と、ずっとずっと一緒だと信じて疑わなかった。いや、それが当然のことのように高志は思っていた。この場所が変わりなく、未来永劫にあるものだと、変わってしまうことなんて考えもしなかったのと同じように。
「須田くんが狙っているのは、一流の商社だよね。頑張って! 絶対に大丈夫だよ。
将来は、忙しく世界を飛び回るビジネスマンだよね。凄いよ。そしてわたしは、時々そんな須田くんと機内で遭遇するの」
「優希がキャビンアテンダント。で、オレが国際ビジネスマン。トレンドドラマじゃん」
「でしょう。素敵! お飲み物はいかがですか。って、白々しく須田くんに声をかけるの。でね、須田くんは、『コーヒーを』って答えて、こっそりと『ステイは?』って聞くの。わたしは、嬉しくってドキドキしながら他のお客様には分からないように、ステイ先のメモを、コーヒーと一緒に渡すの」
「はあ、優希、お前……、ドラマの観過ぎじゃないの? 妄想に近いぞ。そっれて」
「もぅ! 須田くんって、夢がないよ……。ねえ、須田くん、ずっと一緒にいようね」
切れ長な瞳を輝かせて、オレンジジュースの入ったグラスを両手に包みながら語った優希。
まだ見知らぬ現実という世界に夢と希望に満ち溢れていた。あの頃、自分の理想とする未来が訪れると信じていた。新しい世界のドアを開き、足を踏み入れるまでは、ただドアの前に立つことだけに、そのための触手を発達させ、アンテナを張り巡らせて、全神経を集中させ、やっとの思いでドアの前にたどり着き、そして触れることを許されたノブに手を掛け、扉を開く。
開かれた扉の向こうに---、見たもの。あれから五年。
テラスのあったかつての海岸は埋め立てられて、海岸はひどく遠くにあった。駐車場の網目のフェンスに身を乗り出すように遠くを眺めると、冬の闇の中に、海峡をまたぐ七色のイルミネーションライトの輝きが壮大な吊橋のシルエットを映し出していた。