淫響乱舞 -父親願望- -1
「それじゃぁ…行ってくるよ。」
そう言って亘が玄関の戸を開けようとした時、妻の早世子がか細い声で口を開いた。
「ねえ…。」
「何…?」
亘は一瞬心臓をドキッとさせた。もしや離婚話か…。そう頭をよぎった時、
「私…、これからお父さんに…仕える事に決めたから…。」
微かに俯いて目を合わせないまま早世子の口から出たものは、亘の恐れていた言葉とは違っていた。
「そう。。。ごめん…、有難う。。。…じゃぁ、行ってきます。」
そう小さく言葉をかけると、亘はほっと胸をなで下ろし、原付に乗って仕事へと向かっていった。
小さいながらもIT会社を立ち上げた亘だったが、昨年の世界同時不況の荒波に揉まれ、みるみる間に経営状況は悪化。そして遂に数千万の負債を抱えたまま倒産し、奈落の底に突き落とされてしまったのが二ヶ月半前。マンション、家財道具全てを売り払い、行く当てをなくした亘たちが転がり込んできたのが今の家、即ち妻早世子の実家だったのだ。
有難い事に、土木会社を経営している早世子の父、繁英が借金を肩代わりしてくれたお陰で、一時は首でもくくって死ぬしかないとまで思い詰めた危機を回避する事が出来た。しかしこの不況、亘が再就職先をそう容易く見付けられる訳がなく、深夜のコンビニエンスストアと早朝の新聞配達で一時的に凌いでいる状態だ。
(早世子…すまない…。情けない男で…。)
先ほどの早世子の言葉を思い出し、自分の不甲斐なさに思わず涙が出そうになる。少しでも収入を、と早世子も繁英の会社で事務として働く事に決めたのだった。早く仕事を見つけて借金を返済しなければという焦りと、早世子にもかけている多大なる苦労を申し訳なく思いながら、めっきり寒さの更け込んだ道路を急いだ。
徐々に小さく遠ざかっていく原付の音を聞きながら、早世子は静かに玄関の鍵を閉めた。時間は夜の8時30分。まだ来客があるかもしれない、施錠をしてしまうにはあまりにも時間が早すぎる。しかし、早世子にはある大きな決心があり、鍵を掛けてしまったのもその決意の表れだったのだ。
(とうとう言っちゃった…。)
亘に告げてしまった今の一言に、もう後戻りが出来ない境地に来てしまっている重大さを改めて感じ、胸が張り裂けそうになった。あの人は今の言葉の意味を分かってくれたのか…、正直早世子の真意は伝わっていない事など気づいていたが、自分の決断を実行に移す前に、けじめとして言っておかなければならないと思っての事だった。
今もなお軽く震えている体を奮い立たせ、そのまま風呂場へと向かった。衣服を脱ぎ捨て、熱いシャワーと湯船に浸かりようやく平静さを取り戻しつつあった。しかし心臓の鼓動は一向に落ち着きを取り戻しそうにない。脚を伸ばし、どれだけリラックスしようと試みてもそわそわして落ち着かない早世子は、バスタブから上がり体を洗った。いつもより念入りに…。