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『てらす』
【歴史物 官能小説】

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『てらす』-6

「なんで婆が謝るの」

涙さえ流しそうな老女を見ていると、私の胸も痛み出す。

「貴族のお嬢様がこんな手をしていてはいけません」

なぜだろう。
その言葉を聞くと、ひどく冷静になる自分がいる。

「私はもう貴族じゃないわ」

まだ子供の頃に母が死んだ。
そして大好きだった父が死んだ時。
義母は、私を平民に落とすと言った。

「そのようなこと」

婆は何度も首を振った。

「奥様にそのようなことはできません。天子様じゃないのですから」

私の手を握る婆の手に力がこもる。
そして皺に埋もれた小さな瞳で私を見つめた。

「お嬢様は今でも、礼部尚書武士郭(ぶしかく)様のご令嬢でございます」

突然出てきた父の名前。
ふと脳裏に浮かぶのは、私を撫でてくれた大きくて暖かい掌だった。

「こんなに器量も気立ても良いお嬢様ですもの。どんなに辛い思いをされても、世間が放っておくはずがありません」

婆の瞳からは隠しようのない涙が溢れていた。

「いつの日か。いつの日か、必ず立派な士大夫様のお嫁に」

そう言うと、婆は嗚咽を漏らし始めた。
可哀想な、婆。
なぜ泣くの。

「泣かないで。私は今の生活が嫌いじゃないわ」

「なんと健気な」

私の慰めは逆効果だったようだ。
婆は肩を震わせて咽び泣いている。
私はそんな婆の背中をさすってやりながら、思う。
本当に今の暮らしに不満はない。
仕事を持つのは当たり前だ。
むしろ、良く働いた後は爽快な気分になる。
食事だって、着物だって与えて貰えるし、住む場所だってある。
時には、融と遊ぶことだってできる。
だから―。
その時、痛いくらいに強く握られていた婆の手が離れた。

「申し訳ありません、お嬢様。年をとると涙もろくて」

目を拭いながら、婆は火にかけた湯の具合を見に行った。
窓からは冷たい夜風が入ってくる。
ついさっきまで、じんわり暖かかった手に、夜風を感じた。
もの悲しくも冷たい風。

「さあ、お嬢様ももう休んでください。今宵は冷えます。暖かくしないとお風邪を引きますよ」

照れながらも、私を気遣ってくれる婆に頷きを返す。
そして、婆の体温の残る両手を握り締めた。
だから―。
先ほど、考えていたことの続き。

「私は幸せです。お父様、お母様」

誰にも聞こえることのない小さな声で。
私は天国の父と母に報告する。

「今の生活に不満など…」

部屋へと続く廊下は暗く、淡い月明かりさえも届かなかった。


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