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『てらす』
【歴史物 官能小説】

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『てらす』-5

「いいんだ。母様に苛められたら、いつでもいい。私に言いなさい」

兄の声は小さく、よく聞き取れない。
それでも、言葉の端々に兄の気遣いを感じる。

「苛めるなんて…。悪いのは私の方です」

なぜ私は、こんなによくしてくれる兄を嫌うのだろう。

「卑屈になってはいけない」

兄は口元に薄い笑みを浮かべる。

「お前は、礼部尚書の娘なんだよ」

ぼそぼそと話す兄の口調は優しい。
そして、表情も私を優しく見つめてくれているのだろう。

「はい…」

それなのに。
私の肌には隠し切れないほどの鳥肌が立っていた。





思い出せる父の姿はおぼろげで。
脳裏に浮かぶ父の顔はいつも影に隠れている。
ただ、私を撫でてくれた大きな手を鮮明に覚えていた。
太陽のように暖かい手のひら。
その暖かさは、私に何も遠慮することのない安心と、居場所を与えてくれた。
いつまでも、ずっと私を守ってくれる。
何の根拠もないけれど、私はそう思っていた。
流れる水が常に形を変えているように。
変わらないものなんてどこにもないのに。





日が暮れてゆく。
空が夕闇に染まる。
夕餉の煙が立ち上る窓に灯る、仄かな明かり。
風呂焚きを終えて立ち上がると、肌寒い風が吹いた。
庭園に植えられた木々が揺れる。
冬が終わったとはいえ、夜の冷え込みは未だに厳しい。
着物の胸元を手繰り寄せて、吐いた息は白かった。

「お嬢様」

勝手口の扉を開けながら、老女が立っていた。
扉から漏れる明かりが眩しい。

「そんなところにいては、お身体を冷やしてしまいます。早く中へお入りください」

言われるままに、私は扉をくぐる。
火が灯ったままの竈のせいか、台所は暖かい。
老女は白湯を入れてくれた。

「ありがとう」

白湯の暖かさを手で感じる。
老女のことは子供の頃からよく知っていた。
もう数十年もこの屋敷に使えてくれている侍女だ。

「お嬢様、手が」

老女の視線の先には、湯飲みを持った私の手がある。

「こんなにあかぎれて」

いつからか、私の手はぼろぼろになっていた。
水仕事が多いせいかもしれない。

「申し訳ありません。この婆がもっとしっかりしていれば」

私の手を包み込む皺くちゃの手。
暖かい手。


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