やわらかい光の中で-85
◇
実は2年前、独り旅をする気など彼女には全くなかった。最初は友人とタイへ5日間旅行する予定だったのだ。しかし、その友人のお爺様が出発の2日前に突然他界され、そのタイ旅行は断念せざる得なくなった。
友人にお悔やみの言葉を言いながらも、内心は旅行に行けなくなった事を残念に思っていた。そしてとってしまった休みをどう過ごすか、彼女は思いあぐねいていたのだ。
当時の恋人、内藤慎治にも、なんとなくその事を伝えそびれ、気がつくと出発前日の夜を迎えていた。
「明日からタイでしょ。気を付けて! 慎治」
夜中の12時頃、彼からメールをもらった。慎治は決してまめな男ではなかったが、連絡を怠る男ではなかった。彼女がそうして欲しいと言ったからだ。律儀な男で、千鶴がこうして欲しいと要求した事に、自分が納得して受け入れれば、何があろうとその約束を守るタイプだった。
その日も普段の旅行同様、何日間か連絡が取れなくなる恋人にメールを寄越したに過ぎない。そして彼女はこう返信した。
「準備に追われて連絡遅くなっちゃった(^^;気を付けて行ってきまぁす!
日本に着いたら連絡するね! 千鶴」
なぜ自分がそう返したのか、自分でも理解できなかった。
ただ、空のトランクを広げ、深夜のお笑い番組を漠然と見ながら、ビールを何故か缶のまま飲み、スルメを齧っていたら、スラスラとこの文章が出てきて、気が付くと送信ボタンを押していたのだ。
「あっ…送っちゃった…」
独りの部屋で無感情にそう呟いた事を今でも忘れない。
そうして彼女の独り旅は、彼女自身も意識してないところで決められたのだ。
◇
次の日、正午まで眠っていたがのろのろと起きだして、何も考えずに南国へ行く準備をした。
タイ行きがおじゃんになった段階で、友人がその旅行をキャンセルしてくれていたのだが、なんとなくタイへ行くのと同じような物をトランクに詰めた。
本来なら、午後の便でタイへ行く予定だった。
午後2時を過ぎた頃、彼女は慎治へ出発のメールを送ると、意味なく詰めたトランクを転がし、アパートを出た。夏服を詰めたトランクは思ったより軽かった。
アパートの目の前の公園には、彼女と同じ年頃の主婦が子供達を遊ばせ、自分達は亭主の話や姑の話、今日はどこのスーパーの何が安いとか、ドコドコの何が美味しかっただの今夜のおかずを何にしようだのと生活じみた話に花を咲かせて喜んでいた。
トランクの車輪の音がアスファルトの小砂利に反応して、ガラガラと大きな音をたてていた。主婦達はその音の主である千鶴を会話の合間でチラリと見ると、一瞬の沈黙を掻き消すかのように声高らかに笑い合った。
千鶴は彼女達の一連の行動を視界の片隅に入れながら、ゆっくりと駅までの道を歩いた。
駅に着くと、なんとなくいつもの癖で上り電車に乗った。
平日の昼間の電車は空いていた。老人や学生、営業のサラリーマンに何の仕事をしているのか検討のつかない人、子供連れの主婦…朝のラッシュでは見かけない人種ばかりだ。
彼女はトランクを押さえながら、空いていた端のシートに少し斜めに座り、外の流れる景色を眺めていた。
どこに行くかを考えると共に、トランクに何を入れたかを思い出していたのだ。
それから、流れる景色をぼんやりと眺めつつ、今日の自分の行動を1つずつ思い返し始めた。そして、先程の公園の主婦のところで頭の中の映像が止まり、初めての独り旅の旅先を沖縄に決めた。